12体罰の是非問題の理解と、解決に向けて
体罰に反対する人は、「言葉を使えば必ず伝わる」と主張しているが、本当にそう信じているのだろうか。いじめが社会問題になって久しいが、これがいけないことだと知らない子供など一人もいないはずだ。
つまり「そのうち伝わる」ということなのだろうが、小学生になれば子供は小さな社会の一員だ。「そのうち」がいつまでも通用するわけではない。
「言葉を使えば」という人は子供の理解が重要だ主張しているが、それは人間というものをわきまえていないと思う。大人でも飲酒運転から一切の罰がなくなれば、いけないというルールが残っていても、その日のうちにこれを破るものが現れるだろう(私も例外ではない)。人間にはこのような利己主義や快楽の追求の本能があり、それは理解とは別の問題だ。
また子供が得意のイタズラは、ルール違反かそのぎりぎりだから面白い。つまり「好んでルールを侵す」場合さえあるのだ。そして一人を見逃すことが、全体のモラル低下を招くことにもなる。これらを考慮していなければ、都合のよい理屈といわれても仕方がないだろう。
大人でさえ過ちを回避することがあるなら、罰には子供を守るという意味さえある。どうしてこんな利益を手放してまで、都合のよい空論をもてあそぶのだろうか。
たぶん体罰を人権問題だと否定した最初の提唱者は、児童虐待を撲滅したかったのだと思う。虐待は紛れもなく深刻な人権侵害であり、残念ながら世界の各地で頻発しているという。人権を擁護しようとするものにとって、この問題の解決は最優先の課題になっているはずだ。
しかし法で禁じても虐待を減らすことさえできず、紛らわしい体罰と一括して撲滅するしかないと考えたのではないだろうか。虐待の言い訳は、必ずといっていいほど「躾のつもりだった」というものだ。
この想像が正しいかどうかは別として、虐待と体罰を一括のように考えることには反対だ。なぜなら虐待は病理といえるほどの精神的な問題であり、平たくいえば「親が引き起こしている問題」だからだ。
一方体罰は、子供の利己主義や快楽追求が引き起こしており、もちろん親は子供に怪我をさせないよう配慮している。また一般社会に罰が存在するように、罰そのものは人権侵害ではなく社会が必要としているものだ。
結局は「叩く」ということが重なっているということだろうが、両者は分ける必要がないのだろうか。人の手が上がるには理由があるのだ。見た目だけを根拠にしてしまえば、善悪は簡単に逆転してしまう。
また精神的な問題に起因しているなら、禁じることで虐待をなくす事はできない。次は罪を重くしていくのだろうが、こんなことを繰り返していては、問題のない親までが子供をもてあます結果にならないだろうか。親といっても児童教育のプロではないのだ。
さらに反対論が虐待封じのためなら、人権が道具に使われているということになる。こんなことをすれば、どこかにそのしわ寄せが起こるはずだ。
体罰を暴力だと考える人は、体罰を受けたことがないのかもしれない。子供が大泣きしているのを見れば、よほど痛い目にあわされていると思うのだろう。しかし親はきちんと手加減をしているから、叱られタイムが終わった頃には痛みは引いている程度のものだ。
常識論で考えて欲しいのだが、精神的に問題を抱えていない親が、子供に深刻な肉体的被害を与えることなど出来るものだろうか。理性だけでなく本能からもブレーキがかけられているはずなのだ。
たとえばテレビの動物番組で、犬やサルが我が子の「おいた」を叱るため、とり殺すのではないかという勢いで、我が子に噛み付くシーンを見たことがないだろうか。子犬は胸が痛むような悲鳴をあげるのだが、終わってみればどこにも傷を負っておらず、親子関係にも問題は残っていない。
無思慮に見える動物でも怒りに任せて我が子に傷を負わすようなことはできないし、おまけに攻撃音にまで声を荒げ、明らかに「暴力の演技」さえしているのだ。これは人の体罰とまったく同じであり、肉体的被害を与えるのが目的でなく、怒りで非の大きさを伝えているだけなのだ。
叱られたあとの親子のむつまじさを見れば、母犬が問題行動を起こしたわけではないことも、子犬の心がガラス細工でないことも、これが自然の営みだったということも理解できると思う。
動物を例に出せば、「我々には言葉がある」という人が必ずいると思うが、人間の場合もう何度も言ってあることだ。逆にいえば、どうして言葉を使わないのに子犬の聞き分けはよくなるのだろう?
やって見せることが、言葉以上に重要なことだからだと思う。そしてルールの場合やって見せるとは、「守らせる」ことをいうのではないだろうか。いくら熱心に説明したところで、守らないことを許されるルールはないのと変わりがないのだ。
子犬は教わったことを、きちんと次世代につなぐだろう。だから群れのルールは引き継がれ、犬は絶滅を免れてきたのだ(自分が守らないルールをわざわざ子供に伝えない。つまり守らせることに徹しないルールは、次の世代には枯れてしまうのだ。そしてルール違反は全体の不利益を招くので、そのうち群れの上位のものから制裁を受けることになる。親はどちらも回避しているのだ)。
「口でいえば分かる」という人はこれを忘れ、言葉がなければ教育ができないといっているように見える。言葉はより複雑なことを伝えるツールであって、守らせるという鉄則が変わるわけではないはずだ(そのうち誰かが怒り出すのは人も犬も同じだが、誰がそう仕向けたのか分かっているのだろうか)。
もうひとつは、感情に訴えているということだと思う。暴力を受けるということは、大人になっても怖いものだ。こう感じるのは、すべての生物に共通する、生き残りや自己保存の本能なのだろう。だから非常に強い抑止力があり、親はそれを「演じよう」とする。
「恐怖で押さえつけるのは、一時的で意味がない」という意見があるが、そんなことはないと思う。たとえばファミレスで子供が走り回り不快な思いをした人は多いと思うが、子供はいつまでもそんなことをしないものだ。そのうちそれが楽しくなくなったり、カッコ悪いと思えるようになるからだ。
つまり幼児への体罰は、精神的な成長までの一時的な方便であってかまわないと思う。「買って買って攻撃」が、そのうち「幼かったな」と苦笑してしまうように、後からわかるというほうがむしろ自然なことではないのだろうか。
親への感謝を感じるのも、普通は大人になってからだろう。精神的な開花や、別の立場に立つという経験をしなければ、相手の気持ちや苦労など分からないものなのだ。この未熟さや経験値の少なさこそ子供であるということで、これを前提に議論しなければ現実離れした議論になるばかりだ。
こう書くとなんでも叩いて動かすように思う人もいると思うが、それも違う。一度か二度体罰を経験していれば、「コラ!」というひと言で、子供をコントロールできるようになるのだ。子供はこれに萎縮するということもなく、「ここまでが自由の範囲だな」といった線引きをするに過ぎない。
私が子供の頃、大人がこぶしを握り「ハ~」と息を吹きかけると、「次は手が出るよ」というサインだった。これは非常に分かりやすく、子供ながらにどこかユーモラスなものに見えたものだ。たぶんこのサインが私をクドクドとしたお説教から何度も守り、親の無駄な負担やイライラを軽減していたはずだ。
子供の精神年齢は、毎年急成長していく。そう考えればその365分の一ずつ、毎日成長しているのかもしれない。道徳やルールは近い将来必ず理解できるのだから、とりあえず今は守らせることに徹してはどうだろう。犬の子育てが成功するように、守らせることだけでも重要な意味を持っているのだ(逆に見逃してもらえるということも、ひとつの教育になっている)。
体罰は子供を怖がらせるために暴力を装っているが、手加減以外にも暴力と違う部分は多い。心のケアを行っている点も暴力との違いだ。
たとえば「罰した以上、きちんと許す」ということは、たいていの親が実施しているだろう。これによって子供は、自分が憎まれていたわけではないと気づくことが出来る。親が憎んでいるのは子供ではなく、過ちだけなのだ。
さらに父親が幼児に厳しい体罰に及んだとき、母親は自然にそのケアを行っている。少年期に入れば過剰なケアは却って仇ともなるが、幼児に対しては自然に行っているものだ。
子供の頭を撫でたり、肩を抱いてやりながら、「大変だったね、よく辛抱したね」と褒め、「でも悪いことはいけないことだよ」と父親を否定することなく、柔らかい言葉で子供に非を認めさせ、「もう分かったよね、明日からはいい子だね」と前向きに励ますような言葉をかけ、ショッキングな経験をして震えている子供を立ち直らせている。
みんな叩くシーンだけ切り取って体罰を考えているようだが、体罰とはここまですべてを含んだ出来事ではないのだろうか。叩くことが目的ではなく、和解することが目的なのだ。体罰を「今となっては良い思いでです」と振り返る人が多いのは、叩かれたことだけを切り取って考えることができないからだろう。
人と人が一緒に暮らしているのだから、一方が過ちを犯し、一方が腹を立てる日があるのは当たり前のことだと思う。それを責め立て、許し、和解することに、何の不自然さがあるのだろう。子供はいつまでも不可侵な弱者様ではなく、気づけば喜怒哀楽を共にする家族の一員になっている。
また責められたものは、認めなければいけないものは認め、辛くても乗り越えなければならない。「すねる」が通用するのは、ごく限られた期間、相手、場所だけなのだ。そろそろ卒業の時期だろう。自分の非を認めることは大変辛いことだが、その「強さ」や「誠意」を手に入れることは、大人への重要な一歩だと思う。
体罰を考えるならそのシーンだけを切り取らず、全体を見て考えて欲しい。幼児への体罰は厳しい罰でありながら、家族からのサポートを受けての、初めての「過ちの乗り越え体験」なのだ。(体罰反対論は善悪を簡単に逆転できるので、誰もが必ず陥る「すねる・逆恨み・非の転嫁」に正当な根拠を与えてしまい、子供の精神的な成長を阻害しているように見える)
「体罰は人権侵害だ」ということだが、その考えは根本的におかしくないだろうか。そもそも罰とは懲らしめることなので、人権侵害に見えるのは当たり前のことなのだ。「懲り懲りだ」と思うから、罰としての意味があるのだろう。大人社会の禁固刑を人権侵害だと非難する人はいないだろうが、理由もなく貴重な人生の時間を奪われて、人権侵害だと思わない人などいないはずだ。
つまり「罰とはもともと一時的な人権侵害のことであり、それで支払っている(償っている)」と考えるべきものなのだ。罰に人権侵害を指摘するなら、非の大きさとのバランスが取れていない、過剰・不適切(辱めなど)といった場合のことをいうはずだ(そして代替案を提出する必要がある)。
「大人社会では、体刑は廃止されている」という意見がある。しかし廃止の理由は死亡者や再起不能になる人が多く、人権論より、人道的配慮で廃止されたのだ。両者を同列におけるかどうかは、見た目ではなく、負荷の大きさで考えるべきだと思う(これまでの常識論をいえば怪我をさせたかどうかだ)。
その直後から日常生活に復帰できる程度のものを、非人道的だと否定するようでは、結局のところ子供を罰することができない。これでは過ちへの支払いにならないし、再発防止にもならないのだ。
たぶん叩くという行為が許せないのだろうが、子供には精神的な負荷を大きくしていくより、最後は叩くことのほうがよほど自然なことだと思う。人は我慢できないほど怒ったら(心を踏みにじられたら)、手が上がるものなのだ。これはどんな動物にも当てはまる、自然なボディランゲイジのはずだ。
道徳は人の心を慮る(不愉快にさせない・怒らせない)といったことが基本ではないかと思う。ならばそれを回避するためにも、人を怒らせることの罪深さや、どんな結果を招くのかを一度か二度は経験しておくべきではないだろうか。私は親が虐待に陥ると考えるより、親だから安心してこれを任せられると考えている。
ほかにも、「裁判所の決める罰は合法だが、一般の人が人権侵害をすべきでない」と考える人がいるようだ。自分で解決することを「自力救済」といって、法も認めていないという説明だった。しかし子供の「おいた」のことなど、いちいち裁判所に決めてもらうようなことではないだろう。
なるほど裁判による制裁は合法だが、そうでなければ非合法だと考えることが出来る。しかし逆にこう考えることは出来ないだろうか。合法的な制裁を受けるようなら、もう手遅れなのだ。手遅れになるまでこそ、親の出番のはずなのだ(プライベートに片付くことは、法も自治的解決を望んでいる)。
ある程度の年齢まで法が子供に自己責任を問わないのは、あえて自由な(子供に合わせた・親の特色のある)解決の余地を残しているのだろう。子供に問わない自己責任は、親が問われている。
また合法でない(不文律だ)といって罰しなければ、ルールや道徳は守る人と守らない人に別れ、長期的に考えれば廃れていくはずだ。つまり道徳やルールに、命を与えるのが罰ともいえるのだ。
我々の身の回りに道徳が生きているのは、ご先祖様たちがこれを枯らさすリレーしてくれたからに他ならない。「罰をなくそう」などという理屈は、身の回りにまだ道徳が生きているからいえることだと思う。
また口で注意するだけなら、他人でも同じことが出来る。その距離感は、親子のためのものなのだろうか。つまり大人の人権をそのまま子供に適用することは、親子の関係をよそ様と一緒にしてしまうのだ。
「もう寝る時間だよ」「にんじんも食べなさい」と指図することが、子供の未熟さをフォローする責任だと考えるなら、親子の人権は同じでもよそ様とは補正した考え方があるはずだ。そしてこれらのことも、理由を説明したからそれで責任を果たしたというものではないだろう。
叩くことは確かに人権侵害に見える。しかし子供社会の秩序を守れないことも、そのまま成長させて彼らの未来に不安を残すことも、彼らから何かを奪っているように思う。いったい何を奪っているのだろう?
一般社会に当てはめて考えてみれば、たぶん「社会正義」ではないかと思う。子供とはいえ人の集まり(社会)である以上、トラブルが発生することは疑いようもない。そして彼らの社会には、警察官にあたる人も、裁判官にあたる人もいない。現実問題として周囲にいる大人がこの役を買って出なければ、彼らの社会に秩序は保てないのだ。
「叩くことが社会正義なのか」という人がいると思うが、そんなことをいい出したら警察官が暴漢を取り押さえることもできなくなる。罰とはもともとネガティブなものなのだ。ほかによい方法を探してみても、見当たらないなら受け入れるしかないだろう(それが出来なければ、無いものねだりというものだ)。
だから「言葉でいえば分かる」という意見は無責任すぎると思う。もとは体罰反対といっていたはずなのに、いつの間にかすべての罰を否定しているのだ。これはどう考えても代替案がなかったためのすり替えだろう。反対論者は廃止することがしか考えていないから、それ以外の整合性にはいくらでも無関心になれるようだ。
たとえば、男の子に蹴っ飛ばされた女の子がいれば、彼女の人権はどうなるのだろう。このことだけでも、何か支払い(償い)は必要ではないかと思う。もし万々一でも再発があったなら、この女の子にとっては「大人は何もしてくれなかった」ということになる。
さらに前回と同じお説教しか出来なければ、この子やそれを見ている周囲の子供には、(せっかくの正しい道理が)なんと白々しい「一時しのぎの言葉」に聞こえることだろう。
また、他の女の子が被害にあうことはないのだろうか。別の男の子が真似ることはないのだろうか。実効性のない選択をすれば(出来ないことを、出来るといっていれば)、人権侵害は拡大していく。
遅刻・忘れ物・私語といったものも同様だ。一度や二度の「うっかりミス」に手を上げる必要はなかろうが、守る気もなく繰り返されるようなら、いつかは守らせる必要があると思う。これが続けばそのうち守っているものが馬鹿らしく感じ、全体のモラルを引き下げてしまうのだ。
実際に全体のモラルの低下は起こっている。最近の大学では学生の私語が収まらず、授業が成立しないことがあるというが、私語がいけないことを知らない学生などいないはずだ。これは最初の一人を見逃すことの結果だろう(一人目を見逃すと、二人目以降を責めることができなくなる)。
またネットで読んだのだが、親が中学生の娘に「先生には敬語を使いなさい」と注意すると、「みんながそうしないので自分だけ敬語は使えない」という返事だったらしい。全体のモラル低下が起これば、理解できている道理でさえ、本人にもコントロールできなくなるのだ。
多数の道理が侵害されることを考えれば、この被害は計り知れないものだと思う。わずか一世代でこのような変化が目に見えるのだから、二世代目以降を心配しないほうがおかしいだろう。母犬のした「守らせる」が、どれほど重要かを考えて欲しい。
体罰を叩くシーンだけ切り取って議論するから、加害者が被害者になってしまうのだ。人権侵害に見せるために故意にそうしているのだろうが、蹴飛ばされて泣いている子に目をつむり、蹴飛ばした子に免罪符を与えることが正しい人権論とは思えない(これに加えて、罰した人も罪を得て人権を損なう。人権論を道具に使うと、やはりいくつものしわ寄せがあると思う。叩くことを否定するなら、それに変わる再発防止の力のある罰を用意しなければ、周囲の人権が守りきれないのだ。そして抑止力のある「懲り懲りな罰」は、何を選んでも一時的な人権侵害になっている)。
「教師の体罰は、人間関係ができていなければならない」という意見があるが、それもどうかと思う。怪我をさせるといった過剰なことでなければ、罰せられたことをどう受け取ろうと本人の自由であり、罰する側の知ったことではないのだ。手を上げさせたのは子供のほうであり、罰とはそういうものだろう。
結果論ではあるが、害を残さず和解で終われるように、親は幼児のうちにトレーニングをしていたのだ。家族にサポートされながらの幼児期の体験が、少年期以降の辛い体験を、一人で乗り越えさせることになっている。
(私語とちがい遅刻や忘れ物は、全体のモラル低下は起こりにくいと思う。しかし「口でいえば分かる」という理屈では、その子の指導をしている間、ほかの子供が待たされるのだ。つまり集団生活を妨害しているということだ。昔の人はこのようなことを、よそ様へのご迷惑だと考えていた。また時間を節約するため、何度目でも「次は気をつけるように」で済ませば、それはもう諦めているのと変わらないように思う。そして遅刻や忘れ物がなぜいけないかなど、10歳にもなればもう分かっていることだろう)
話が前後するようだが、皆さんは「人権の定義」をご存知だろうか。調べてみて驚いたのだが、人権には定義がないのだ。つまり人それぞれの解釈論であり、こう考えれば人権意識のある者同士でも、考えに違いがあって当然ではないかと思う(さらにいえば、感情論に陥りやすいことも)。
人権論者の発言を、即正しいと考えてはいけない。なぜなら彼らの主張をいつも正しいと考えてしまえば、立法や司法の上部構造のような権力を作ることになるからだ。たとえば(是非は置くとして)死刑や堕胎は人権侵害だと彼らが主張すれば、すぐに法律が従わなければいけなくなる、ということだ。
このような権力を作ることはやはり望ましいことではなく、彼らは提唱者と位置づけ、その是非を決定するのは我々全員だと考えるべきだろう。「奴隷制度の廃止」も「人種差別の禁止」も、人権論だからといってただ受け入れられたのではなく、当時の人によるこの作業をパスしてきたのだ。正しい人権論なら、この作業に耐えるはずなのだ。
一度認知された人権論は、後から訂正することができないだろう。誰もが納得できる人権論を、後世に引き継ぎたいものだと思う。
人権論以外にも、体罰を否定する意見がある。心理学などの科学的な根拠だ。しかしこれらの意見も、(体罰の経験者として)ひとつとして肯けるものがない。肯けないどころか針小棒大な誇張や、明らかに恣意的な誘導だと分かるものばかりなのだ。
どうして心理学者の指摘する体罰の「害」を、経験者の私がひとつも理解できないのだろう?この矛盾を合理的に説明する方法がある。その説明は簡単だが、納得していただくためにも(少し長くなるが)根拠を示しながら、順を追って説明しよう。
科学的根拠のなかに、ひとつ気になるものがあった。「罰は悪い影響しか検出されず、心理学的には(ほとんどの学者によって)否定されている」というものだ。行動分析学のスキナーという博士が、これを明らかにしたのだそうだ。
しかし体罰に感謝している人も少なくない。どうしてこのようなプラス評価は、まったく検出されなのだろうか。
私なりにスキナーについて調べてみたが、自発的な行動を起こす「オペラント条件付け」を発見した人だそうだ。罰で行動を起こさせるより、オペラント条件で行動を起こさせるほうがずっと効率がいいということを、動物実験で確かめたらしい。
ちょっと待って欲しい。
動物には言葉が通じない。だから「言葉以外にも、自発的な行動を起こさせるものがある」と確かめるには、動物が向いていると思う。しかし動物に教えて観察できるのは、せいぜい知識や技能だろう。人間ならば「九九」や「ダンス」といったものだ。体罰が必要なシーンとは思えない。
罰で行動を起こさせる実験をしたようだが、普通の親は罰で子供を動かすことなどしない。ごく稀に罰を意識させて動かすことがあるが、これは言葉が通用しない(いっても聞かない)場合に限ったことだ。
教育という言葉でひと括りにすることができても、未知の技能や知識の習得と、知っているルールや道徳に従わないことは、まったく別の問題だ。親が責めているのは、ルールや人の心をおざなりにした、「幼稚な利己主義性」や「過度な快楽追求」なのだ。
どうしてスキナーはこれらを分けようとしなかったのだろう。ただ体罰を否定したかったからだろうか。ではどうして他の心理学者も同意しているのだろう。彼らと私の間には、体罰の見方になにか大きなくい違いがあるように思える。
体罰に反対する意見を聞くと、西洋の学者が提唱したものの引用が多い。学者・識者と呼ばれる人も、西洋人の研究や調査結果を根拠にあげている人が多いようだ。日本と西洋の体罰や教育の姿勢には、何か根本的な違いがあるのではないだろうか。つまり我々は、「別のもの」を見ながらいい争っているのではないだろうか。
調べてみると日本と西洋では、やはり教育の姿勢に大きな違いがあったようだ。かつて日本を訪れた多くの西洋人たちが、驚きに満ちた言葉でそれを書き残している。時代の順に並べてみよう。
安土桃山時代に宣教師として日本に訪れたルイス・フロイスは、その著書にこう記している。「驚いたことに、子供に鞭を使わずに言葉で戒める」「これほど子供を可愛がる国民を見たことがない」「日本の子供は立ち居振る舞いが完璧で、のびのびしていて愛嬌がある」
江戸期初頭に来日し、日本人女性と結婚したフランソア・カロンの著書には、「日本人は子供を注意深く、かつ優しく育てる。たとえ一晩中やかましく泣き叫んでもぶったりする事はほとんどない」と記されている。
幕末では、「日本人は子供たちの無邪気な行為に寛大すぎるほど寛大であり、手で打つなどとてもできないくらいである」フィッセル(蘭)。「児童教育にあっても、少なくとも知識階級にはぜんぜん体刑は行われていない。是がため私は、我が国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」シーボルト(蘭)。「日本人はけして子供を打つことはない。文化を誇るヨーロッパの国民が、その子供たちに盛んに加える、この非人道的にして且つ恥ずべき刑罰法を、私は日本滞在中見たことがなかった」オールコック(英)。
明治初頭には、「日本の子供は善良で礼儀正しく、のびのびしている」バシル・ホール・チェンバレン(英)。「これほど子供を可愛がり、いつも一緒にいる国民を見たことがない」イザベラ・バード(英)。「日本は子供の天国」モース(米)…等々。
これらは日本人へではなく、彼らの本国へ日本を紹介するため書かれたものだ。おそらく彼らの目にはひどい「甘やかし国家」に見えたはずだが、そのペンから非難が読み取れないのは、子供たちが明るさと礼儀を併せ持っていたからだろう。そして彼らも本心では、子供を打つことが好きではない、ということだと思う。
彼らがこう書き残したのは、「我々とまったく違う」という驚きからだが、やはり日本に体罰がなかったわけでもないようだ。江戸時代には、体罰をなくそうという趣旨の論文がいくつか書かれているようだが、これはとりも直さず書かれるたび、その筆者の周りに体罰が存在したということだ。
また教育機関での子供接し方にも、日本と西洋には大きな違いがあったようだ。日本の中世の学校にあたる寺小屋や、その上級学校に当たる私塾では、叩くという暴力に類する罰はあまり見当たらないそうだ(ただし現在の、立たせる・正座させるに近い、見せしめ刑のようなものは見られたそうだ)。
一方、西洋での教育機関の様子だが、16世紀フランスの思想家モンテーニュの「随想録」には、このように記されている。
「学校はさながら子供たちを入れる監獄か牢屋のようなところで、いたずらも何もしていないのに鞭で子供を叩き、授業中に聞こえてくるのは、子供たちの悲鳴と教師の怒鳴り声だけだ」「教師は鞭を手にして生徒に向かい、やがて血にまみれた鞭の折れはしが飛び散る…」
もちろんこのような学校ばかりではなかっただろうが、どうやら中世の西洋では鞭を使った激しい体罰が当たり前で、少なくとも日本の明治期頃まではそれが残っていたようだ。
なぜこれほど大きな違いが生じたのだろう。本心では、子供を打ちたくなかったのではないのだろうか。そう考えてネットでヒントになるようなことを探してみると、すぐにこれが正解ではないかと思える事実を見つけることができた。なんと聖書に子供を鞭で打つことを勧める記述が数箇所あり、「子供をよく育てたければ、鞭を惜しむな(聖書にそう書いてある)」というのが、西洋人の基本姿勢だったらしいのだ。
これは「人は原罪を負っている」という性悪説的な宗教観とあいまって、子供の原罪を抑えるためと考えられたようだ。
(特に子供は思慮に欠け、それだけ原罪に近い存在だと考えられていたらしい。叩くことにためらいがなかったため、19世紀初頭のイギリスでは、労働力としての子供の扱いは奴隷のようなものだったという。ちなみに、日本の思想に大きな影響を与えた儒教は性善説だ。体罰反対論はこの学者によるものが多く、逆に子供の甘やかし傾向を指摘する人さえいたようだ)
また西洋の学校の原型は神学校であり、鞭ありきの場所だったらしい。だからそれ以降の学校でも、鞭は黒板やチョークのように、当たり前の道具として使われてきたということだ(教鞭という言葉のルーツだね)。
スキナーが「罰で人を動かすより…」という実験をしたことも、これなら肯ける。彼が確かめたのは、知識や技能の習得などに積極的に体罰を使う、西洋の古典的な学校の場合だったのだ(すぐに鞭を振り回す教師の前で、ルール違反や不道徳をする子供などそういないだろう。だから動物実験でもことが足りるのだ)。
もちろん現在の西洋の家庭や学校が、鞭によって子供を管理するような場所であるはずがない。しかし多くの人がイメージする体罰とは、歴史的に長く引き継がれてきたものだろうし、事実ごく最近までは、西洋のたくさんの町で「子供用の鞭」が売られていたという。
(ところで…スキナーのイメージする体罰は、海外のフィルムなどでときどき見る、農業などの効率や生産量を上げるため、そこで働いている子供を鞭で叩き、追い立てるシーンにそっくりではないだろうか!?違いは大人のため(収穫)と、子供のため(学業)なのだが、残念ながら多くの子供は学業がそんなに好きではない。理屈では自分のためと理解できるが、実際のところ子供にとって学業は、押し付けられた「苦役」でしかないのだ。ならば西洋式の体罰は、作業を強いる支配者と奴隷の関係に、極限まで近いものではないかと思う。つまりは虐待にだ。
そしてスキナー以降の学者も、このような体罰をイメージしてそれぞれの研究を行っていたはずだ。そうでなければスキナーの実験は、子供への体罰にそのまま当てはめられないと指摘されているはずだ。ちなみに…体罰の害を検出する実験はたくさんあると思うが、有名なものはネズミの迷路抜けだ。エラーに対して電気ショックを与えるそうだが、これは「害」の検出ではなく「負荷」の検出だろう。非を認めて罪の意識と相殺できれば、害とは思わないものだ)
知識や技能を修得する場合なら、私も体罰には反対だ。叩いたからといって、出来るようになるわけではない。それこそ「何度でも、粘り強く」という姿勢が求められるだろう。出来たときには褒めるべきだし、「出来ないことを叱るものではない」。
子供がピンとくるような分かりやすい説明に腐心すべきなのに、これでは「言葉を惜しんでいる」と指摘されても仕方がない。なるほど「恐怖支配」「暴力の連鎖」という言葉も、当てはまる場合があるだろう。努力しても出来ないことで叩かれては萎縮してしまうし、その恨みの矛先が弱者に向けられることもあると思う。
西洋式に教育全般にまで体罰を広げると、たった今まで理解不能だった体罰を否定する意見が、クルリとに肯けるものに変わってしまうようだ。
(体罰肯定論に「体罰は教育だ」という意見があるが、上記のような理由で私は反対だ。罰はあくまで非に対して発生するもだと思う。「非の無い罰」には、人権侵害を指摘されても仕方がないだろう。部活動のように、教える側と教わる側の利害が完全に一致し、短期間で長足の進歩を遂げるため、両者の合意のもとで体罰が有効に働く場合もあると思うが、それは一般論には出来ないはずだ。西洋でこれが引き継がれたのは、みんなが聖書の言葉を信じ、社会が受け入れていたからに過ぎない。ひょっとすると、これは私と同じことをいっているのかもしれないが、この表現では誤解する人が現れる)
やはり我々は、別のものを見ながらいい争っていたのだと思う。体罰といってしまえばそれまでだが、日本と西洋では負荷(手・鞭)も、子供の捉え方(性善・性悪)も、頻度(止むを得ず・惜しまず)も、理由(過ちへの罰として・教育の効率として)も、体罰の主要な要素が正反対を示しているのだ。言葉を翻訳すれば同じものでも、文化によって内容が異なるものはいくらもある。
つまり世間に流布されている「体罰の害」というものは、古典的な体罰をイメージした西洋でのキャンペーンに使われたものを、そのまま日本に持ち込んだだけなのだと思う。だから我々には、ひとつも肯けないのではないだろう。
たぶん日本の体罰否定論は日本人が提唱したのではなく、西洋人の提唱に日本の人権団体が「乗った(追随した)」という関係のはずだ。ならばオリジナルと同じ理屈でなければ、矛盾や不自然さを生じるだろう。
また実際に西洋ではスキナー実験ような体罰を、(学校だけでも)数百年も日常化していたようだし、これまで針小棒大な誇張に見えていた体罰の害が、古典的な西洋の体罰で考えればすべてが急に肯けるものになる、といったことは起こらないはずだ。
(ここまでを読んでどう思われただろうか。かなり重要なことだと思うので、ぜひ冷静な判断をお願いしたい。違うものを指しているのであれば、議論を仕切りなおす必要さえあるのだ。少なくとも体罰の害というものは考え直す必要があると思う。詳しい事情をご存知の方は、是非お知らせ願いたい)
もし世間に流布されている体罰の害が、我々と別のものを前提にしているなら、我々は日本の一般的な体罰による害を吟味すべきだろう。日本の体罰はなるべく使うことを避けながら、避けようもなく最後に残ったものだ。それは周囲に迷惑をかけるような不道徳を罰することであり、法が介入しない身近な不文律を守るためのものだ(昔の日本人は「よそ様へのご迷惑」を非常に嫌った)。
これは自衛できるということでもある(西洋との最大の違いかもしれない)。日本の親や教師は、出来ないことで手を上げたりしない。努力もせずに0点を取ったら別だろうが、普通はルールを守ってさえいれば体罰の対象にはならないのだ。
これは一般社会にも通じている。大人への刑罰がルール違反以外の、訓練中の知識や技能に適用されることなどまずないだろう。我々はそんな社会罰を、「為政者の恐怖支配」とは考えず、社会正義を守るものだと認識し、受け入れることができる。
またこれは、体罰を受けた世代が体罰を容認している、ということとも矛盾していない。「私が子供の頃は…」で始まる反対派がうんざりしている体罰肯定論は、どれも「(非と相殺出来るなら)害など残らないよ」といっているのだ。我々は自分や我が子への「害」を、庇い立てするほどお人好しではない。
また日本の体罰は、痛みを目的としていない。もちろん負荷がなければ手加減がばれるし、罰として年齢に応じた負荷をかけてはいるが、「道具を使うことをタブーと考える人が多い」のは、痛みを直接の目的にしていない証拠ではないだろうか。道具を使えば、痛くするのは簡単なことなのだ。
しかし痛くさせることなど目的にしてしまえば、怪我をさせるもとになる。つまり怪我のない範囲で、という枠組みがあったのだと思う(いつの時代でも子供に怪我をさせる親はいただろうし、そんな人は非難されていたはずだ)。
すこし話を脱線させるが、たぶん日本式の体罰に異論をもっている人がいると思う。だがそれは80年代以降の中学校のことではないだろうか。この時代の中学校では、体罰が頻発していたようなのだ。
大人の競争社会が中学生まで巻き込み始めたからだろう。ツッパリグループという存在が当たり前になり、教師は競争社会や大人の代表者として、彼らから目の敵にされるようになってしまった。それに対抗するため暴力としての体罰もあっただろうし、一般の生徒が彼らに加わらないよう、これまでより頻繁に体罰が向けられたのではないかと思う。
大人社会の競争を中学校に持ち込み、子供に大きなストレスをかけ反抗させておきながら、それを問題視しなければならないとは、近代化社会は子供にずいぶんな迷惑をかけていると思う。
しかし何度考えても生徒間の迷惑行為や、全体のモラル低下に歯止めをかけるなら、(体罰でないにしろ)何かの罰は必要ではないかと思う。迷惑行為がなくなるなど、おそらくありえないはずだ。
体罰反対を唱える人によると、学校での体罰を廃止した国が増えているということだが、それらの国はなにも罰を用意していないのだろうか。法に明記されなくても、日本の「正座させる」のような慣習的な罰もないのだろうか。「体罰を廃止しよう。替わりの罰も、懲り懲りさせないものにしよう」などという理屈が通るのは、日本くらいではないかと思う。
もし一切の罰なしで上手くいっている国があるなら、そのノウハウを取り入れるのはよいことだと思う。イタズラ盛りを過ぎてしまえば、子供に体罰など急速に似つかわしいものではなくなるのだ。しかし別の問題が生じているなら、罰を廃止したことなど自慢にもならない。被害者や周囲への迷惑を考えれば、罰を無くすことは反社会的な行為といえるのだ。
もし別の罰を考えるなら、受け入れなければならないことがある。「懲り懲り体験」でなければ意味がないことや、すべての生徒が対象になるということだ。結局のところ、自衛をしなければ自分を守れないということは、どんな罰でも変わりがない(昔からおっかない教師はいたものだが、自分を守るには自衛することが最も確実だったので、みんなそうしてきたのだ。もちろん自衛とは、ルールを守るだけのことだ)。
そして制度化しなければ、おかしなことになるのも体罰と同じだ。体罰の問題がやたら揉めてしまうのも、本来は存在しないものだからだろう。だから怪我があれば学校は隠そうとするし、親はポンと叩いただけでも大被害だと訴えることになる。社会に認める気がなければ、どんな罰でも成り立たないのだ。
(体罰を認めれば教師が暴走する、という意見があるが、それは逆だと思う。認めたものには枠組みが生まれるからだ。道具の追放やその違反への罰則は、認めると同時に明文化されるだろう)
体罰がエスカレートしていると考え、反対するのはもちろん個人の自由だ。しかしこれらのことを考え、みんなを納得させる現実的な提案をして欲しい。ネガティブな経験だったからといって、廃止を叫ぶだけなら子供と変わりがない(良いアイデアなら、拒むものなどいないのだ)。
(注:中学生の場合、一般生徒と教師の対立を煽っているのは、ひょっとすれば「校則」ではないのだろうか。だから大人になっても納得できない人が多いのではないだろうか。私の世代でも、日ごろ仲のよい教師と生徒を対立させていたのは、多くの場合校則だった。だとすれば、つまらぬことをしていると思う。わざわざ対立の火種を作っているのだ。校則を無意味だとは思わないが、いくら説明しても納得や妥協のできないものなら、そりゃもともと無理ってものだろう。また公立であれば、学校ごとに違うことも不満の種になっている。このことだけでも妥当なルールとは思えないのだ。精神的な開花を前にし、急速に自意識にさいなまれていく「お年頃」の彼らに、髪形のおしゃれを楽しむ余地くらい残してやりたいものだと思う)
学校での体罰は禁止されているので、このような議論に意味はないという人がいるが、それは違うと思う。たとえば何か「悪法」があるなら、改正を議論するのが普通だろう。この法を支持する人が、「そんな議論してはいけません」と発言するのはおかしなことだ。
体罰の禁止は悪法どころか、日本の美しさをあらわしたものだと思う。しかしこれを成立させていた、「目上を敬う文化」「師の影を踏まずという教育者への敬意」「これらを常識とする家庭教育」「親バレが怖いという抑止力」といったものを、いまやすべて喪失してしまったのだ。
「私が子供の頃は」で始まる体罰容認の意見をよくみて欲しい。かなりの人が、親バレのほうが怖かったと発言しているはずだ。つまり親が教師の後ろ盾になっており、だから教師の「コラ!」でたいていのことは収まってしまい、一部のいたずらっ子以外はあまり体罰の対象にならなかったのだ。
いまや教師は、ストレス発散のために子供を叩く悪者にされている。しかし罰則が飲酒運転の抑止力になっているように、どこかに抑止力は必要なのだ。もし親が抑止力になっていないのなら、教師に余計な手を上げさせているのは、実は親ではないのだろうか。そして子供が教師を非難するのは、親が嫌われ役を辞めてしまったからではないのだろうか。
私の経験では、女子が教師に叩かれるのを見たのは一度きりだった。彼女たちが家庭で体罰を受けたことがあったかどうかは知らないが、男子から見れば嫌味なくらい当時の女の子たちはルールをきちんと守っていた(もちろんそんな男の子もいた)。家庭教育さえできていれば、体罰が廻ってくる心配など必要ないのだ。
また父親が怖くなくなれば、前述したような母親のフォローも必要がない。このことが乗り越え体験を少なくしていないだろうか。今後日本人がどんな罰を学校に用意しても、まず家庭で母親が寄り添い、非を認めて乗り越える練習をしていなければ、「害」として残るか、教師が悪者になるだけのような気がする(負荷のない、無意味な罰なら別かもしれないが)。
さて話を戻すが、西洋での体罰の是非論は、いわばお家騒動のようなものではないかと思う。彼らにとって体罰を否定することは、聖書を否定するほど勇気のいることのはずだ。しかし教育全般に使用した場合の悪影響が確認され、さらに昨今では虐待の隠れ蓑になっていることを含めて、マイナス面が無視できなくなってしまったのだと思う。
そして彼らの最も大きいジレンマは、よほど大規模な啓蒙活動に成功しない限り、中世のままの体罰を使う人が大勢いるということではないだろうか。千年に及ぶ伝統はあまりに明確なイメージを確立しているし、聖書を書き変えでもしない限り、鞭打ちはいつまでも神の思し召しであり続けるのだ。
実際に彼らの聖書崇拝は、我々の宗教心の比ではない、今でも聖書を固く信じ、進化論を否定する人も大勢いるのだ。人権論争に見える堕胎の議論も、実は聖書の思想と現実論の争いという面がある。また信心深い西洋人は聖書を曲解することを畏れ、書かれている通りに信じようとしていると聞いた。これは「鞭を惜しむなとは、厳しくせよという意味だな」と、勝手に解釈してはいけないということだ。
つまり彼らの社会では、精神的に問題を抱えていない人でも虐待に陥る可能性が大きく、人権論として廃止を考える余地が十分にあったのだと思う(実際に中世から近世にかけての学校では、普通に接しているつもりが虐待行為に陥っていた)。彼らにとっても子供の不道徳を見過ごすことなどできないはずだから、体罰廃止に踏み切った西洋国家にとって、これはまさに苦渋の決断だったはずだ。
「先進国は体罰廃止に向かっている」と、西洋に追随しようとする人が多いが、そんな考え方はもう終わりにするべきだろう。妄信的な追随には、差別やコンプレックスが棲んでいる。
これはその国の子育て文化であり、何を禁忌(タブー)と教えているかは、その国の思想や民族性にも関わることだ。よその国に合わせようなどと考えるべきことではないし、西洋人に弱い人の考えにもあわせたくない。
子供を積極的に鞭で叩くという危険なことをしてきたのは彼らであり、別の文化を確立している我々は、手に取ったこともない聖書に振り回される必要はないはずだ。
人権派の人にとって、人権の世界的な統一性は何より重要なことなのだろうが、身の周りの道徳との両立も考えて欲しい。蛇を駆除すればネズミが大繁殖してしまうように、何かをなくせば別のところにも「変化」が現れる。この変化にまで責任の持てる主張でなければ、社会全体からは迷惑なことなのだ。
自分の職務ばかりを優先し、お得意の「人権侵害に見えるところだけ見て、全体や結果にお構いなし」なら、一切の罰は成立しなくなってしまう。抑止力を失えば、却って子供たちを危険に追いやることになるのだ。崖に向かって歩くのをみれば、有無を言わさず引き返させるのが周囲の大人の役割ではないのだろうか。
言葉があるって?子供の知らないルールを責める人がいるだろうか。理解が必要だって?真の理解を待つ必要があるのだろうか。万一崖から落ちたとき、それを本人の自己責任だと考えていいのは、大人に限ったことだろう(子供は崖の近くが好きだということまで知っているのに)。
「昔の人は人権意識がなかったから、体罰をしていた」などという意見があるが、彼らはよその子に迷惑をかけないことと、我が子を可愛がることを両立してきたのだ。不道徳を罰しながらも、道具や怪我をタブーと考える良識を引き継いでくれたのだ。
現在の一般社会のように、過剰でない罰が人権侵害でないなら、これはすべての人権を保ちながら、社会正義を守っていたということにほかならない。ちょっとの妥協と、上手に運用しようという聡明さがあれば、良いとこ取りが出来るというのに。まして、お手本まで用意してもらっているのに。
(人権を統一的にして、体罰を認めることは簡単だ。民族によって体罰や接し方に違いがあると、ありのままを認めれば済むことなのだ。世界人権本部というようなものがあるなら、このような文化の違いをどう解釈しているのだろう。西洋人自身が「こんなに子供を可愛がる国民を見たことがない」と、賞賛をこめた言葉で違いを書き残しているのに、ここでも体罰だけを切り取って非難し、「礼儀正しくのびのびしている」といった感想はお構い無しなのだろうか)
我々の父親達は、普段は優しいながらも、不道徳に関しては顔を真っ赤にして怒ってくれた。こうして子供社会の秩序を守り、ひいては大人になってからも、道徳的に振舞える文化を残してくれたのだ。
彼らの努力は報われてきたと思う。わが国は暴力を認める社会どころか、江戸時代から昭和の中ごろまで、世界でも有数の治安のよい国だったのだ。彼らのこのような実績に目をつぶり、事情の違う先進国と同じであるなどということに、安心や満足を求めてよいのだろうか。
これはご先祖様への義理立てでも、郷愁やセンチメンタリズムでもない。温和な「母性社会と考えられる日本」では、これ以上家庭内から父性を喪失するわけにはいかないと思うのだ。もともと「父性社会であった西洋」のように、これまで突出していたものを抑えるのとは意味が違うのだ(注:母系・父系ではない)。
近代化によるライフスタイルの変化で、日本の父子は会話をする時間さえ持てなくなっている(世界最悪水準だそうだ)。また「子供のことは妻に任せている」という時代があり、これを引き継ぐ考え方はいまだに根強い。そして子供と積極的に関わろうという父親も、社会への道先案内をする前に、お友達になることに精一杯の状況だ。
これではお勉強以外に、子供に進むべき方向をしっかりと指差せない。家庭内に安らぎを提供するものの重要性と同様に、近隣者同士がお互いを尊重しあい、我が子であってもその不道徳を糾弾する、社会正義を掲げるものも必要なのだ。
子供と密着しやすい日本の母親には「苦痛の大きい作業」だから、日本人は「父親の役割」として、子供を罰するということを考える必要があると思う。
さらにいえば思想や宗教という、自分を律する「道徳テキスト」を喪失した民族だからこそ(こんな民族他にはない)、父親は、いやすべての親は、道徳をリレーする責任を感じる必要があると思う。
蛇足ながら…戦後の家庭教育を席巻した、「叱るより褒めよう」の「叱ることの害」も、害が出るような叱り方で害を検出し、必ず害があると思わされているのではないだろうか。それともみんな叱られたことを、大人になってからも害だと認識しているのだろうか。
そうでなければ、ここにも現実との矛盾がある。害が出るような叱り方の害を見て、叱ることは良くないといっても仕方がないだろう。
「叱る」も「褒める」も「罰す」も「許す」もなんでも程度の問題で、どれも必要なもののはずだ。要・不要のような二元論ではなく、ケース(経緯)やバランスを考えることが何より重要ではないかと思う。おそらくこれらはお互いがコントラストになり、その存在意義を高めあっているはずだ。
「叱るのはいいが、怒ってはいけない」というのも同じだ。親が子供に喜怒哀楽を隠すことに、どれほど意味があるのだろう。これもやはり虐待を意識しすぎ、常識のほうが侵されているようだ。
何度も言ってあることが守られないから、親は怒ってしまうのだ。そして親は子供に、理解できないようなことを要求していない(真の理解は精神の開花を待たなければならないが、何をいっているかは分かっているはずだ)。ならばこの場合「守らなければ相手がどう思うか」や、「ルール違反には限度がある」といった知識を教えるチャンスではないのだろうか。
戦後の家庭教育は、舶来品をありがたがり、文化の違いも考慮しない識者や教育書によって、現実や常識論のほうが大きくスポイルされているように思う。そこだけ切り取った研究結果を、犯すことのできない科学的な事実として、前後の脈絡も考えずに「絶対視」しすぎるように見えるのだ。
ばい菌が危険だという説明は正しいが、無菌室でなければ安心できないというのであれば、その説明や理解のしかたは間違っていると思う。たとえば小さな火傷の経験が、その後の人生の大きな火傷を回避するなら、害であってさえ子供には有益な人生経験になるのだ。
子供の場合「乗り越えられるもの」なら、害の部分ばかりを見ようとせず、得られる利益も考えるべきだと思う。無菌室は長くいるほどそこから出られなくなる、一番危険な場所でもあるのだ。
みんな子供のことを真剣に考えているのに、これほどの対立が生まれるのはどういうことだろう。体罰の是非には、何か根本的な問題でもあるのだろうか。
そう考えているうちに、こんなふうに思えてきた。ひょっとすると体罰の是非論とは、父性と母性の対立ではないだろうか。男女がお互いの気持ちをなかなか分かり合えず、しばしば対立してしまうように、父性と母性がその行動原理のままに発言しているから、いつまでも理解し合えないのではないだろうか。
ネットを覗いてざっと数えただけでも、男性は賛成派・容認派が、女性は反対派・慎重派が多いようだ。男女の違いは、体罰の是非に大きな意味を持っていると思う。
(ただし父性と母性は男女ともに持っており、その割合が傾向として現れるものだ。だから男女の争いというより、何を中心に考えるかの争いであり、結果的に男女の傾向が見え易いということだ。また、叩くことが父性なのかという反論もあるだろうが、叩くというよりきちんと罰するということだ)
父性のキーワードは「切断」であり、母性は「包含」なのだそうだ。切断とは子供を善悪・上下などで二分し、悪は正し、下であれば鍛えようとする。包含とはいかなる区別もつけず、ありのままを受け入れ、包み込むということだ。
いきなり善悪という言葉が出てきたが、両者の態度は体罰の是非そのもののように見える。母性は無条件な愛であり、常に許しだが、父性は条件つきの愛であり、悪と見れば許すことが出来ないのだ。
また、切断とは子供に対して「分離・自立」を迫るものであり、これは外部(社会)への指向ということだ。逆に包含は「密着・依存」を意味し、これは内部(家庭)への指向といえるだろう。
これも体罰の是非と大きく関わっている。罰せられる側から見れば、罰は人権侵害に見えるのだろうが、社会の側から見れば、罰はみんなを守るための社会正義だ。どちらを中心に考えるかで、被害に見えたり、当然の仕打ちに見えたりする。
やはり体罰の是非は、父性と母性の対立ではないのだろうか。体罰の是非を煎じ詰めれば、「子供を守る」と「道徳(社会正義)を守る」に分かれ、これは父性と母性の指向と奇麗に重なっているのだ(父性と母性を表すキーワードはほかにもたくさんあるが、おおむね上記のものと関わっているようだ。父性は社会の側から、その厳しさに子供を合わせようとするが、母性は家庭の側から、その安らぎを子供に与えようとしている)
ところがこの違いがそれぞれに役割を与え、子育てに有利な分業を成立させているようだ。社会の規範を尊重し、失敗を責め、やり直しを要求する父性により、子供はより高度な社会性を獲得する。
何度失敗しても容認してくれる母性によって、子供は自己を否定したり、諦めたりすることがない。母性が子供に満足・安心・安定をもたらし、父性の厳しいハードルを乗り越えさせているのだ。
父性と母性は対極にありながら、お互いにないものを上手に補って、ひとつのものの完成に貢献しているようだ。この関係は「相互補完」というものだろう。愛情といってしまえばそれだけだが、たぶんいくつもの愛し方があり、シーンによって使い分けが必要なのだと思う。
この違いはやはり、子供を生んだかどうかに大きく関わっているのだろう。母親は我が身を揺り籠にして、文字通り血肉を分けて子供を育み、生死を賭けてこの世に送り出している。分身という意識があり、密着傾向が現れて当然のように思う。
逆に父親は「妻が子供を産んだので、自分は父親になった」という間接的な関わりしか体験していない。
また母親が乳房を持っているのは、乳幼児を育てる役割を負っているということだろう。乳幼児というのは、いつ死んでもおかしくないほどか弱い存在だ(ごく最近までそうだった)。母子ともに利己(子)的であることが、この時期の生き残りには欠かせないことだと思う。よその子のことなど、気にしてはいられないのだ。
この時期の父親の役割は、母子への食糧供給だ。これがなければ母親の子育ては、根底から成立しなくなってしまう。どうも母親は子供を生んだことで、一時的に利己(子)主義を帯び、父親は親になったことで、これまでより強い社会性を手に入れることになるようだ。
さらに父性と母性は、指向性の違い以外にも「対立の火種」を持っている。父性の切断には、「母子の密着を切り離す」役割もあるというのだ。父性の側からすれば子離れは、子供の成長を考えれば当然の営みなのだが、強い母性を持つ母親には身を切られるような苦痛があるのかもしれない。父性はその役割へのターミネイター(終わらせるもの)なのだ。揉めて当然ではないか?
父性と母性の対立が表面化する理由は、少子化の影響ではないかと思う。多産であれば母性の対象は順に下の子供にシフトしていき、そのやり場に困ることがない。また、手のかかる乳幼児を複数持つことが大きな負担になり、自発的に上の子供の「分離・自立」にも協力的になっていけたはずだ。
さらに避けようもなく繰り返される兄弟喧嘩で、いつも下の子が上の子に泣かされているのを見れば、むしろ母親から厳しい対応を求めていた可能性さえ考えられる。いま母性の対象となっている下の子への被害には、我が子であっても上の子に強く干渉したはずだ(女性の皆さん、我が身に置き換えて考えてみてください)。
やはり体罰の是非は、父性と母性に大きく関わっているのではないだろうか。もともとの指向性ばかりでなく、少子化というライフスタイルの変化まで、対立を矛盾なく説明できるのだ。
もしそうなら父性と母性は歩み寄る必要がある。子供を育てているのは、間違いなく一組の男女なのだ。そしておそらく父性も母性も、子供には必要なはずなのだ。どんなことをイメージしてもいい、エラーを許せる広い心と、それをきちんと改めさせるだけの力がなければ、高い理想には手が届かないのではないだろうか。
(役割論を語れば、女権運動の人には強い反発があるかもしれない。しかしこれはあくまで傾向のハナシで、役割が逆転することは各家庭の自由だろう。ただ同性であっても人が二人いれば、「ボケ」と「突っ込み」のように、自然に役割が分かれるのだ。同じことしかできない二人より、それぞれが得意分野を持っているなら、足りない部分を認めあい、フォローしあえる二人であろうとしたほうが、広い視野で子供に接することが出来るという話だ)
西洋には「ベターハーフ」という言葉がある。天上界にいたとき人間は完全体だったのに、この世に生まれたときに半分に引き裂かれ、以来人は、もう半分の自分を捜しているのだという。
なんだかおとぎ話めいているが、父性と母性は相互補完的なものだと考えるなら、これは現実をほとんど正確に言い表している。自分ひとりでは不完全であり、配偶者が自分に足りないものを持っているというのだ。
子育ては一組の男女の共同作業だ。考えに対立が生じたとき合意を得ようと思うなら、お互いへの歩み寄りは不可欠だろう。自己主張ばかりをして結論を得ていれば、口先の達者なほうや、腕力の強いほうに正しさが偏る。
こんな時ベターハーフという言葉は、自分に足りない部分があるということを無理なく肯定させ、誰もが苦手な「譲歩」をサポートする心配りがあると思うのだ。
納得しきれない考え方に譲歩するには、相手への信頼が欠かせない。この信頼を育むため男女は恋愛をし、子供を作るのだろう。営みのすべてが次世代への布石になっている。
しかし厳しさと優しさを分業にしたのは、神様のグッドアイデアではないだろうか。一人に両立させようとすれば、どちらも中途半端になり、その意味を大きく損なうだろう。上手にできるほう、徹することが出来るほうを、専門家に選んだのだ。
シングルで子育てをする人も、本来は二人でやることだと知っているから、自分の役割でないものまでフォローしようと考えることができるのだ(前述したバランスだ)。おそらくこの柔軟性と想像力と自制心を持った人ならば、シングルのハンデを乗り越えて、人間の男女のもつあらゆる情緒を子供に触れさせ、普遍的な子育てに成功するだろう。
そして分業であるからこそ、どちらかの暴走にブレーキをかけることもできる。「甘やかす」ことも「厳しすぎる」ことも、過ぎれば毒になりかねない。つまり譲歩とは役割を投げ出すことではなく、今回は「監視役」に回るということなのだ。
父親が体罰に踏み切ったとき、「お父さん、もういいじゃありませんか。さぁたろう君、お母さんも一緒に謝ってあげるから、御免なさいしようね」母親のこんな言葉が父親の暴走を未然に防ぎ、落ち着きどころがなくなっている話をまとめ(父親だってこの状況に慣れていない。たいていの父親は、この言葉を待っているのではないか?)、結果的に「お母さんは優しい人」になっているのだ。
そして父親は「厳しいモラリスト」になっている(ついでに書けば、母親は父親に同意を示す、優しいモラリストだ)。
たったこれだけの自然なやり取りが、望ましい相互補完を実現しているように思える。前述した、父親の体罰を母親がケアすることも同様だ。お互いが「主張(出番)」と「譲歩(監視役)」をわきまえることで、自然に相互補完が成立するのだと思う。
たぶんこれら全部を含めたものが、その家庭の体罰なのだろう。なぜなら自分の過ちを知り、これらすべてを経験する子供だからこそ、叩かれたことだけを切り取ることができないからだ。
フォロー役を、脇役だと思う必要はないと思う(日本の場合いつもは母性が主役だ)。父親の「正義の権威・圧力」が子供のわがままを強く抑制し、母親の日常的な「言葉の教育」を支援することになるのだ。ベターハーフであればこそ、両者は個別のものではなく、一体化して見える。
(一部略)
「体罰の是非論は、父性と母性の対立だ」という私の説を、なんとか信用してもらえないだろうか。こう考えれば、かなり常識的なところで決着がつくと思う。あるいは和解の糸口になると思うのだ。
なぜ私がこのように「お頼み」するかというと、そろそろこの問題に決着をつけてもらいたいからだ。この議論を重ねてもう30年近くになるが、今のままでは子供や若い世代に混乱と迷いを生じさせ、人々や大人と子供に誤解と対立を招くばかりだ。
多少の妥協を受け入れなければ、100年経っても物事は解決しない。繰り返しになるが、既に30年近く費やしているのだ。子育てという「生物の最も根源的な営み」に、常識が確立していないなどということは、あってはならないことだと思う。
人権論を主張する人は、人権意識の高い人と低い人の対立だと考えていると思う。しかし、人権論といわれれば無批判に受け入れる人ならともかく、普通の人は自分の感情を出発点にして「考え」、それを補強してくれる理屈を採用するのではないだろうか。
男女の感情の違いといえば、このような話もある。パートナーの裏切りを知ったとき、男女によって責める相手が異なるそうだ。男性は裏切ったパートナーを責め、女性はパートナーを裏切らせた女性を責めることが多いという(誤解がないように書くが、あくまで傾向)。どうも女性は男性に比べて、愛するものの非を認めたがらず、それをよそに見出すようだが、これも体罰の是非と関係がないだろうか。
また叱られるという事も、男女によって受け取り方が違うのだそうだ。たとえば職場で「この企画書では駄目だ」といわれたとき、男性はその企画書が悪いと思うが、女性は能力や人格まで全否定されたように、大きなショックを受けることがあるのだそうだ(職場で泣くのはたいてい女性だ)。
どうも女性のほうが、叱られるということへのダメージが大きいようだが、これも体罰の是非と関連がありそうに思える(ならば男の子と女の子とでは、体罰も同じように扱えないのではないだろうか。腕力が弱いということだけでも、それへの恐怖心が大きいかも知れない)。
父性・母性でなくてもこれほど感情に大きな違いのある二人が、共同で行わなければならないのが子育てだ。お互いが譲歩し合い、協調し合えるような考え方が、ぜひとも必要だと思う。
ベターハーフなどを持ち出すと、多くの人はおとぎ話だと笑うかもしれない。女権運動家には、取るに足らないカビの生えた旧弊な考え方だろう。しかしこの言葉をいい伝えてきた人たちは、我々よりはるか昔から、個人主義を自然な身の回りの文化としていた人たちなのだ。たぶん個人を尊重する考えとそう矛盾するものではない。むしろ現代的な、「違いのあるもの同士が、お互いを認め合う」ためのおまじないではないかと思う(譲歩は根拠を求めているはずだ)。
たとえ話だから嘘にも見えるが、父性と母性はネガ・ポジのような構造になっている。この違いを対立で終わらせず相互補完として活かそうと思えば、これほど上手い説明は無いと思う。
またこの言葉は、子育てを終えた世代から、子育てを始める世代に贈られたはずだ。このリレーが絶えなかったのは、子育てが終わってみれば、次の世代に伝えるだけの「確からしさ」を感じることができたからだろう。
さらに子育てばかりではなく、もともと血のつながりのない男女が家族になるためには、とても都合のよいおまじないではないだろうか。家族・一族という言葉からは、血の繋がりをイメージしてしまうが、その出発点となる夫婦にはそれがないのだ。特別なつながりという考え方は、好都合ではないかと思う。
もちろんこういってみたところで、親は自分のパートナーを、必ずしもベターハーフであると信じることができないはずだ。我々が生涯に言葉を交わせる異性は、全体から見ればあまりに少なすぎる。
しかし子供にすれば、(遺伝子や、発生のメカニズムを知らなくても)自分は親の半分ずつから出来ていることをなんとなく知っている。親が一対のものでなければ、子供は体を二分されるような、錯覚や不安を覚える(私にはそんな記憶がある)。両親がベターハーフであることを、誰よりも信じているのはきっと子供なのだ。
子供が親離れを始めるまでは、つまり個人として歩み始めるまでは、ベターハーフというおとぎ話を一緒に信じてやれないものだろうか。
最後に体罰のハナシから離れてしまった。ベターハーフなど、所詮おとぎ話だ。こんなことは信じなくてもいい。反対論の人からも、議論をすり替えていると批判を受けることになるだろう。
しかし体罰の是非を考えるとき、配偶者を得ているなら自分の意見でなく、配偶者と話し合った結論をその家庭としての意見にして欲しい。考えを一本化しなければ子供が混乱するし、こんなことさえ出来ないようでは夫婦ではない。これはなんとか認めて欲しい。
夫婦で出した結論であれば、それがどっちに転んでも、私はそれを支持しよう。
END
【長文にもかかわらず、読了くださって有難うございます。 感謝を込めて 椎葉一】

