2011年11月29日 (火)

12体罰の是非問題の理解と、解決に向けて

体罰に反対する人は、「言葉を使えば必ず伝わる」と主張しているが、本当にそう信じているのだろうか。いじめが社会問題になって久しいが、これがいけないことだと知らない子供など一人もいないはずだ。

つまり「そのうち伝わる」ということなのだろうが、小学生になれば子供は小さな社会の一員だ。「そのうち」がいつまでも通用するわけではない。

「言葉を使えば」という人は子供の理解が重要だ主張しているが、それは人間というものをわきまえていないと思う。大人でも飲酒運転から一切の罰がなくなれば、いけないというルールが残っていても、その日のうちにこれを破るものが現れるだろう(私も例外ではない)。人間にはこのような利己主義や快楽の追求の本能があり、それは理解とは別の問題だ。

また子供が得意のイタズラは、ルール違反かそのぎりぎりだから面白い。つまり「好んでルールを侵す」場合さえあるのだ。そして一人を見逃すことが、全体のモラル低下を招くことにもなる。これらを考慮していなければ、都合のよい理屈といわれても仕方がないだろう。

大人でさえ過ちを回避することがあるなら、罰には子供を守るという意味さえある。どうしてこんな利益を手放してまで、都合のよい空論をもてあそぶのだろうか。

たぶん体罰を人権問題だと否定した最初の提唱者は、児童虐待を撲滅したかったのだと思う。虐待は紛れもなく深刻な人権侵害であり、残念ながら世界の各地で頻発しているという。人権を擁護しようとするものにとって、この問題の解決は最優先の課題になっているはずだ。

しかし法で禁じても虐待を減らすことさえできず、紛らわしい体罰と一括して撲滅するしかないと考えたのではないだろうか。虐待の言い訳は、必ずといっていいほど「躾のつもりだった」というものだ。

この想像が正しいかどうかは別として、虐待と体罰を一括のように考えることには反対だ。なぜなら虐待は病理といえるほどの精神的な問題であり、平たくいえば「親が引き起こしている問題」だからだ。

一方体罰は、子供の利己主義や快楽追求が引き起こしており、もちろん親は子供に怪我をさせないよう配慮している。また一般社会に罰が存在するように、罰そのものは人権侵害ではなく社会が必要としているものだ。

結局は「叩く」ということが重なっているということだろうが、両者は分ける必要がないのだろうか。人の手が上がるには理由があるのだ。見た目だけを根拠にしてしまえば、善悪は簡単に逆転してしまう。

また精神的な問題に起因しているなら、禁じることで虐待をなくす事はできない。次は罪を重くしていくのだろうが、こんなことを繰り返していては、問題のない親までが子供をもてあます結果にならないだろうか。親といっても児童教育のプロではないのだ。

さらに反対論が虐待封じのためなら、人権が道具に使われているということになる。こんなことをすれば、どこかにそのしわ寄せが起こるはずだ。

体罰を暴力だと考える人は、体罰を受けたことがないのかもしれない。子供が大泣きしているのを見れば、よほど痛い目にあわされていると思うのだろう。しかし親はきちんと手加減をしているから、叱られタイムが終わった頃には痛みは引いている程度のものだ。

常識論で考えて欲しいのだが、精神的に問題を抱えていない親が、子供に深刻な肉体的被害を与えることなど出来るものだろうか。理性だけでなく本能からもブレーキがかけられているはずなのだ。

たとえばテレビの動物番組で、犬やサルが我が子の「おいた」を叱るため、とり殺すのではないかという勢いで、我が子に噛み付くシーンを見たことがないだろうか。子犬は胸が痛むような悲鳴をあげるのだが、終わってみればどこにも傷を負っておらず、親子関係にも問題は残っていない。

無思慮に見える動物でも怒りに任せて我が子に傷を負わすようなことはできないし、おまけに攻撃音にまで声を荒げ、明らかに「暴力の演技」さえしているのだ。これは人の体罰とまったく同じであり、肉体的被害を与えるのが目的でなく、怒りで非の大きさを伝えているだけなのだ。

叱られたあとの親子のむつまじさを見れば、母犬が問題行動を起こしたわけではないことも、子犬の心がガラス細工でないことも、これが自然の営みだったということも理解できると思う。

動物を例に出せば、「我々には言葉がある」という人が必ずいると思うが、人間の場合もう何度も言ってあることだ。逆にいえば、どうして言葉を使わないのに子犬の聞き分けはよくなるのだろう?

やって見せることが、言葉以上に重要なことだからだと思う。そしてルールの場合やって見せるとは、「守らせる」ことをいうのではないだろうか。いくら熱心に説明したところで、守らないことを許されるルールはないのと変わりがないのだ。

子犬は教わったことを、きちんと次世代につなぐだろう。だから群れのルールは引き継がれ、犬は絶滅を免れてきたのだ(自分が守らないルールをわざわざ子供に伝えない。つまり守らせることに徹しないルールは、次の世代には枯れてしまうのだ。そしてルール違反は全体の不利益を招くので、そのうち群れの上位のものから制裁を受けることになる。親はどちらも回避しているのだ)。

「口でいえば分かる」という人はこれを忘れ、言葉がなければ教育ができないといっているように見える。言葉はより複雑なことを伝えるツールであって、守らせるという鉄則が変わるわけではないはずだ(そのうち誰かが怒り出すのは人も犬も同じだが、誰がそう仕向けたのか分かっているのだろうか)。

もうひとつは、感情に訴えているということだと思う。暴力を受けるということは、大人になっても怖いものだ。こう感じるのは、すべての生物に共通する、生き残りや自己保存の本能なのだろう。だから非常に強い抑止力があり、親はそれを「演じよう」とする。

「恐怖で押さえつけるのは、一時的で意味がない」という意見があるが、そんなことはないと思う。たとえばファミレスで子供が走り回り不快な思いをした人は多いと思うが、子供はいつまでもそんなことをしないものだ。そのうちそれが楽しくなくなったり、カッコ悪いと思えるようになるからだ。

つまり幼児への体罰は、精神的な成長までの一時的な方便であってかまわないと思う。「買って買って攻撃」が、そのうち「幼かったな」と苦笑してしまうように、後からわかるというほうがむしろ自然なことではないのだろうか。

親への感謝を感じるのも、普通は大人になってからだろう。精神的な開花や、別の立場に立つという経験をしなければ、相手の気持ちや苦労など分からないものなのだ。この未熟さや経験値の少なさこそ子供であるということで、これを前提に議論しなければ現実離れした議論になるばかりだ。

こう書くとなんでも叩いて動かすように思う人もいると思うが、それも違う。一度か二度体罰を経験していれば、「コラ!」というひと言で、子供をコントロールできるようになるのだ。子供はこれに萎縮するということもなく、「ここまでが自由の範囲だな」といった線引きをするに過ぎない。

私が子供の頃、大人がこぶしを握り「ハ~」と息を吹きかけると、「次は手が出るよ」というサインだった。これは非常に分かりやすく、子供ながらにどこかユーモラスなものに見えたものだ。たぶんこのサインが私をクドクドとしたお説教から何度も守り、親の無駄な負担やイライラを軽減していたはずだ。

子供の精神年齢は、毎年急成長していく。そう考えればその365分の一ずつ、毎日成長しているのかもしれない。道徳やルールは近い将来必ず理解できるのだから、とりあえず今は守らせることに徹してはどうだろう。犬の子育てが成功するように、守らせることだけでも重要な意味を持っているのだ(逆に見逃してもらえるということも、ひとつの教育になっている)。

体罰は子供を怖がらせるために暴力を装っているが、手加減以外にも暴力と違う部分は多い。心のケアを行っている点も暴力との違いだ。

たとえば「罰した以上、きちんと許す」ということは、たいていの親が実施しているだろう。これによって子供は、自分が憎まれていたわけではないと気づくことが出来る。親が憎んでいるのは子供ではなく、過ちだけなのだ。

さらに父親が幼児に厳しい体罰に及んだとき、母親は自然にそのケアを行っている。少年期に入れば過剰なケアは却って仇ともなるが、幼児に対しては自然に行っているものだ。

子供の頭を撫でたり、肩を抱いてやりながら、「大変だったね、よく辛抱したね」と褒め、「でも悪いことはいけないことだよ」と父親を否定することなく、柔らかい言葉で子供に非を認めさせ、「もう分かったよね、明日からはいい子だね」と前向きに励ますような言葉をかけ、ショッキングな経験をして震えている子供を立ち直らせている。

みんな叩くシーンだけ切り取って体罰を考えているようだが、体罰とはここまですべてを含んだ出来事ではないのだろうか。叩くことが目的ではなく、和解することが目的なのだ。体罰を「今となっては良い思いでです」と振り返る人が多いのは、叩かれたことだけを切り取って考えることができないからだろう。

人と人が一緒に暮らしているのだから、一方が過ちを犯し、一方が腹を立てる日があるのは当たり前のことだと思う。それを責め立て、許し、和解することに、何の不自然さがあるのだろう。子供はいつまでも不可侵な弱者様ではなく、気づけば喜怒哀楽を共にする家族の一員になっている。

また責められたものは、認めなければいけないものは認め、辛くても乗り越えなければならない。「すねる」が通用するのは、ごく限られた期間、相手、場所だけなのだ。そろそろ卒業の時期だろう。自分の非を認めることは大変辛いことだが、その「強さ」や「誠意」を手に入れることは、大人への重要な一歩だと思う。

体罰を考えるならそのシーンだけを切り取らず、全体を見て考えて欲しい。幼児への体罰は厳しい罰でありながら、家族からのサポートを受けての、初めての「過ちの乗り越え体験」なのだ。(体罰反対論は善悪を簡単に逆転できるので、誰もが必ず陥る「すねる・逆恨み・非の転嫁」に正当な根拠を与えてしまい、子供の精神的な成長を阻害しているように見える)

「体罰は人権侵害だ」ということだが、その考えは根本的におかしくないだろうか。そもそも罰とは懲らしめることなので、人権侵害に見えるのは当たり前のことなのだ。「懲り懲りだ」と思うから、罰としての意味があるのだろう。大人社会の禁固刑を人権侵害だと非難する人はいないだろうが、理由もなく貴重な人生の時間を奪われて、人権侵害だと思わない人などいないはずだ。

つまり「罰とはもともと一時的な人権侵害のことであり、それで支払っている(償っている)」と考えるべきものなのだ。罰に人権侵害を指摘するなら、非の大きさとのバランスが取れていない、過剰・不適切(辱めなど)といった場合のことをいうはずだ(そして代替案を提出する必要がある)。

「大人社会では、体刑は廃止されている」という意見がある。しかし廃止の理由は死亡者や再起不能になる人が多く、人権論より、人道的配慮で廃止されたのだ。両者を同列におけるかどうかは、見た目ではなく、負荷の大きさで考えるべきだと思う(これまでの常識論をいえば怪我をさせたかどうかだ)。

その直後から日常生活に復帰できる程度のものを、非人道的だと否定するようでは、結局のところ子供を罰することができない。これでは過ちへの支払いにならないし、再発防止にもならないのだ。

たぶん叩くという行為が許せないのだろうが、子供には精神的な負荷を大きくしていくより、最後は叩くことのほうがよほど自然なことだと思う。人は我慢できないほど怒ったら(心を踏みにじられたら)、手が上がるものなのだ。これはどんな動物にも当てはまる、自然なボディランゲイジのはずだ。

道徳は人の心を慮る(不愉快にさせない・怒らせない)といったことが基本ではないかと思う。ならばそれを回避するためにも、人を怒らせることの罪深さや、どんな結果を招くのかを一度か二度は経験しておくべきではないだろうか。私は親が虐待に陥ると考えるより、親だから安心してこれを任せられると考えている。

ほかにも、「裁判所の決める罰は合法だが、一般の人が人権侵害をすべきでない」と考える人がいるようだ。自分で解決することを「自力救済」といって、法も認めていないという説明だった。しかし子供の「おいた」のことなど、いちいち裁判所に決めてもらうようなことではないだろう。

なるほど裁判による制裁は合法だが、そうでなければ非合法だと考えることが出来る。しかし逆にこう考えることは出来ないだろうか。合法的な制裁を受けるようなら、もう手遅れなのだ。手遅れになるまでこそ、親の出番のはずなのだ(プライベートに片付くことは、法も自治的解決を望んでいる)。

ある程度の年齢まで法が子供に自己責任を問わないのは、あえて自由な(子供に合わせた・親の特色のある)解決の余地を残しているのだろう。子供に問わない自己責任は、親が問われている。

また合法でない(不文律だ)といって罰しなければ、ルールや道徳は守る人と守らない人に別れ、長期的に考えれば廃れていくはずだ。つまり道徳やルールに、命を与えるのが罰ともいえるのだ。

我々の身の回りに道徳が生きているのは、ご先祖様たちがこれを枯らさすリレーしてくれたからに他ならない。「罰をなくそう」などという理屈は、身の回りにまだ道徳が生きているからいえることだと思う。

また口で注意するだけなら、他人でも同じことが出来る。その距離感は、親子のためのものなのだろうか。つまり大人の人権をそのまま子供に適用することは、親子の関係をよそ様と一緒にしてしまうのだ。

「もう寝る時間だよ」「にんじんも食べなさい」と指図することが、子供の未熟さをフォローする責任だと考えるなら、親子の人権は同じでもよそ様とは補正した考え方があるはずだ。そしてこれらのことも、理由を説明したからそれで責任を果たしたというものではないだろう。

叩くことは確かに人権侵害に見える。しかし子供社会の秩序を守れないことも、そのまま成長させて彼らの未来に不安を残すことも、彼らから何かを奪っているように思う。いったい何を奪っているのだろう?

一般社会に当てはめて考えてみれば、たぶん「社会正義」ではないかと思う。子供とはいえ人の集まり(社会)である以上、トラブルが発生することは疑いようもない。そして彼らの社会には、警察官にあたる人も、裁判官にあたる人もいない。現実問題として周囲にいる大人がこの役を買って出なければ、彼らの社会に秩序は保てないのだ。

「叩くことが社会正義なのか」という人がいると思うが、そんなことをいい出したら警察官が暴漢を取り押さえることもできなくなる。罰とはもともとネガティブなものなのだ。ほかによい方法を探してみても、見当たらないなら受け入れるしかないだろう(それが出来なければ、無いものねだりというものだ)。

だから「言葉でいえば分かる」という意見は無責任すぎると思う。もとは体罰反対といっていたはずなのに、いつの間にかすべての罰を否定しているのだ。これはどう考えても代替案がなかったためのすり替えだろう。反対論者は廃止することがしか考えていないから、それ以外の整合性にはいくらでも無関心になれるようだ。

たとえば、男の子に蹴っ飛ばされた女の子がいれば、彼女の人権はどうなるのだろう。このことだけでも、何か支払い(償い)は必要ではないかと思う。もし万々一でも再発があったなら、この女の子にとっては「大人は何もしてくれなかった」ということになる。

さらに前回と同じお説教しか出来なければ、この子やそれを見ている周囲の子供には、(せっかくの正しい道理が)なんと白々しい「一時しのぎの言葉」に聞こえることだろう。

また、他の女の子が被害にあうことはないのだろうか。別の男の子が真似ることはないのだろうか。実効性のない選択をすれば(出来ないことを、出来るといっていれば)、人権侵害は拡大していく。

遅刻・忘れ物・私語といったものも同様だ。一度や二度の「うっかりミス」に手を上げる必要はなかろうが、守る気もなく繰り返されるようなら、いつかは守らせる必要があると思う。これが続けばそのうち守っているものが馬鹿らしく感じ、全体のモラルを引き下げてしまうのだ。

実際に全体のモラルの低下は起こっている。最近の大学では学生の私語が収まらず、授業が成立しないことがあるというが、私語がいけないことを知らない学生などいないはずだ。これは最初の一人を見逃すことの結果だろう(一人目を見逃すと、二人目以降を責めることができなくなる)。

またネットで読んだのだが、親が中学生の娘に「先生には敬語を使いなさい」と注意すると、「みんながそうしないので自分だけ敬語は使えない」という返事だったらしい。全体のモラル低下が起これば、理解できている道理でさえ、本人にもコントロールできなくなるのだ。

多数の道理が侵害されることを考えれば、この被害は計り知れないものだと思う。わずか一世代でこのような変化が目に見えるのだから、二世代目以降を心配しないほうがおかしいだろう。母犬のした「守らせる」が、どれほど重要かを考えて欲しい。

体罰を叩くシーンだけ切り取って議論するから、加害者が被害者になってしまうのだ。人権侵害に見せるために故意にそうしているのだろうが、蹴飛ばされて泣いている子に目をつむり、蹴飛ばした子に免罪符を与えることが正しい人権論とは思えない(これに加えて、罰した人も罪を得て人権を損なう。人権論を道具に使うと、やはりいくつものしわ寄せがあると思う。叩くことを否定するなら、それに変わる再発防止の力のある罰を用意しなければ、周囲の人権が守りきれないのだ。そして抑止力のある「懲り懲りな罰」は、何を選んでも一時的な人権侵害になっている)。

「教師の体罰は、人間関係ができていなければならない」という意見があるが、それもどうかと思う。怪我をさせるといった過剰なことでなければ、罰せられたことをどう受け取ろうと本人の自由であり、罰する側の知ったことではないのだ。手を上げさせたのは子供のほうであり、罰とはそういうものだろう。

結果論ではあるが、害を残さず和解で終われるように、親は幼児のうちにトレーニングをしていたのだ。家族にサポートされながらの幼児期の体験が、少年期以降の辛い体験を、一人で乗り越えさせることになっている。

(私語とちがい遅刻や忘れ物は、全体のモラル低下は起こりにくいと思う。しかし「口でいえば分かる」という理屈では、その子の指導をしている間、ほかの子供が待たされるのだ。つまり集団生活を妨害しているということだ。昔の人はこのようなことを、よそ様へのご迷惑だと考えていた。また時間を節約するため、何度目でも「次は気をつけるように」で済ませば、それはもう諦めているのと変わらないように思う。そして遅刻や忘れ物がなぜいけないかなど、10歳にもなればもう分かっていることだろう)

話が前後するようだが、皆さんは「人権の定義」をご存知だろうか。調べてみて驚いたのだが、人権には定義がないのだ。つまり人それぞれの解釈論であり、こう考えれば人権意識のある者同士でも、考えに違いがあって当然ではないかと思う(さらにいえば、感情論に陥りやすいことも)。

人権論者の発言を、即正しいと考えてはいけない。なぜなら彼らの主張をいつも正しいと考えてしまえば、立法や司法の上部構造のような権力を作ることになるからだ。たとえば(是非は置くとして)死刑や堕胎は人権侵害だと彼らが主張すれば、すぐに法律が従わなければいけなくなる、ということだ。

このような権力を作ることはやはり望ましいことではなく、彼らは提唱者と位置づけ、その是非を決定するのは我々全員だと考えるべきだろう。「奴隷制度の廃止」も「人種差別の禁止」も、人権論だからといってただ受け入れられたのではなく、当時の人によるこの作業をパスしてきたのだ。正しい人権論なら、この作業に耐えるはずなのだ。

一度認知された人権論は、後から訂正することができないだろう。誰もが納得できる人権論を、後世に引き継ぎたいものだと思う。

人権論以外にも、体罰を否定する意見がある。心理学などの科学的な根拠だ。しかしこれらの意見も、(体罰の経験者として)ひとつとして肯けるものがない。肯けないどころか針小棒大な誇張や、明らかに恣意的な誘導だと分かるものばかりなのだ。

どうして心理学者の指摘する体罰の「害」を、経験者の私がひとつも理解できないのだろう?この矛盾を合理的に説明する方法がある。その説明は簡単だが、納得していただくためにも(少し長くなるが)根拠を示しながら、順を追って説明しよう。

科学的根拠のなかに、ひとつ気になるものがあった。「罰は悪い影響しか検出されず、心理学的には(ほとんどの学者によって)否定されている」というものだ。行動分析学のスキナーという博士が、これを明らかにしたのだそうだ。

しかし体罰に感謝している人も少なくない。どうしてこのようなプラス評価は、まったく検出されなのだろうか。

私なりにスキナーについて調べてみたが、自発的な行動を起こす「オペラント条件付け」を発見した人だそうだ。罰で行動を起こさせるより、オペラント条件で行動を起こさせるほうがずっと効率がいいということを、動物実験で確かめたらしい。

ちょっと待って欲しい。

動物には言葉が通じない。だから「言葉以外にも、自発的な行動を起こさせるものがある」と確かめるには、動物が向いていると思う。しかし動物に教えて観察できるのは、せいぜい知識や技能だろう。人間ならば「九九」や「ダンス」といったものだ。体罰が必要なシーンとは思えない。

罰で行動を起こさせる実験をしたようだが、普通の親は罰で子供を動かすことなどしない。ごく稀に罰を意識させて動かすことがあるが、これは言葉が通用しない(いっても聞かない)場合に限ったことだ。

教育という言葉でひと括りにすることができても、未知の技能や知識の習得と、知っているルールや道徳に従わないことは、まったく別の問題だ。親が責めているのは、ルールや人の心をおざなりにした、「幼稚な利己主義性」や「過度な快楽追求」なのだ。

どうしてスキナーはこれらを分けようとしなかったのだろう。ただ体罰を否定したかったからだろうか。ではどうして他の心理学者も同意しているのだろう。彼らと私の間には、体罰の見方になにか大きなくい違いがあるように思える。

体罰に反対する意見を聞くと、西洋の学者が提唱したものの引用が多い。学者・識者と呼ばれる人も、西洋人の研究や調査結果を根拠にあげている人が多いようだ。日本と西洋の体罰や教育の姿勢には、何か根本的な違いがあるのではないだろうか。つまり我々は、「別のもの」を見ながらいい争っているのではないだろうか。

調べてみると日本と西洋では、やはり教育の姿勢に大きな違いがあったようだ。かつて日本を訪れた多くの西洋人たちが、驚きに満ちた言葉でそれを書き残している。時代の順に並べてみよう。

安土桃山時代に宣教師として日本に訪れたルイス・フロイスは、その著書にこう記している。「驚いたことに、子供に鞭を使わずに言葉で戒める」「これほど子供を可愛がる国民を見たことがない」「日本の子供は立ち居振る舞いが完璧で、のびのびしていて愛嬌がある」

江戸期初頭に来日し、日本人女性と結婚したフランソア・カロンの著書には、「日本人は子供を注意深く、かつ優しく育てる。たとえ一晩中やかましく泣き叫んでもぶったりする事はほとんどない」と記されている。

幕末では、「日本人は子供たちの無邪気な行為に寛大すぎるほど寛大であり、手で打つなどとてもできないくらいである」フィッセル(蘭)。「児童教育にあっても、少なくとも知識階級にはぜんぜん体刑は行われていない。是がため私は、我が国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」シーボルト(蘭)。「日本人はけして子供を打つことはない。文化を誇るヨーロッパの国民が、その子供たちに盛んに加える、この非人道的にして且つ恥ずべき刑罰法を、私は日本滞在中見たことがなかった」オールコック(英)。

明治初頭には、「日本の子供は善良で礼儀正しく、のびのびしている」バシル・ホール・チェンバレン(英)。「これほど子供を可愛がり、いつも一緒にいる国民を見たことがない」イザベラ・バード(英)。「日本は子供の天国」モース(米)…等々。

これらは日本人へではなく、彼らの本国へ日本を紹介するため書かれたものだ。おそらく彼らの目にはひどい「甘やかし国家」に見えたはずだが、そのペンから非難が読み取れないのは、子供たちが明るさと礼儀を併せ持っていたからだろう。そして彼らも本心では、子供を打つことが好きではない、ということだと思う。

彼らがこう書き残したのは、「我々とまったく違う」という驚きからだが、やはり日本に体罰がなかったわけでもないようだ。江戸時代には、体罰をなくそうという趣旨の論文がいくつか書かれているようだが、これはとりも直さず書かれるたび、その筆者の周りに体罰が存在したということだ。

また教育機関での子供接し方にも、日本と西洋には大きな違いがあったようだ。日本の中世の学校にあたる寺小屋や、その上級学校に当たる私塾では、叩くという暴力に類する罰はあまり見当たらないそうだ(ただし現在の、立たせる・正座させるに近い、見せしめ刑のようなものは見られたそうだ)。

一方、西洋での教育機関の様子だが、16世紀フランスの思想家モンテーニュの「随想録」には、このように記されている。

「学校はさながら子供たちを入れる監獄か牢屋のようなところで、いたずらも何もしていないのに鞭で子供を叩き、授業中に聞こえてくるのは、子供たちの悲鳴と教師の怒鳴り声だけだ」「教師は鞭を手にして生徒に向かい、やがて血にまみれた鞭の折れはしが飛び散る…」

もちろんこのような学校ばかりではなかっただろうが、どうやら中世の西洋では鞭を使った激しい体罰が当たり前で、少なくとも日本の明治期頃まではそれが残っていたようだ。

なぜこれほど大きな違いが生じたのだろう。本心では、子供を打ちたくなかったのではないのだろうか。そう考えてネットでヒントになるようなことを探してみると、すぐにこれが正解ではないかと思える事実を見つけることができた。なんと聖書に子供を鞭で打つことを勧める記述が数箇所あり、「子供をよく育てたければ、鞭を惜しむな(聖書にそう書いてある)」というのが、西洋人の基本姿勢だったらしいのだ。

これは「人は原罪を負っている」という性悪説的な宗教観とあいまって、子供の原罪を抑えるためと考えられたようだ。

(特に子供は思慮に欠け、それだけ原罪に近い存在だと考えられていたらしい。叩くことにためらいがなかったため、19世紀初頭のイギリスでは、労働力としての子供の扱いは奴隷のようなものだったという。ちなみに、日本の思想に大きな影響を与えた儒教は性善説だ。体罰反対論はこの学者によるものが多く、逆に子供の甘やかし傾向を指摘する人さえいたようだ)

また西洋の学校の原型は神学校であり、鞭ありきの場所だったらしい。だからそれ以降の学校でも、鞭は黒板やチョークのように、当たり前の道具として使われてきたということだ(教鞭という言葉のルーツだね)。

スキナーが「罰で人を動かすより…」という実験をしたことも、これなら肯ける。彼が確かめたのは、知識や技能の習得などに積極的に体罰を使う、西洋の古典的な学校の場合だったのだ(すぐに鞭を振り回す教師の前で、ルール違反や不道徳をする子供などそういないだろう。だから動物実験でもことが足りるのだ)。

もちろん現在の西洋の家庭や学校が、鞭によって子供を管理するような場所であるはずがない。しかし多くの人がイメージする体罰とは、歴史的に長く引き継がれてきたものだろうし、事実ごく最近までは、西洋のたくさんの町で「子供用の鞭」が売られていたという。

(ところで…スキナーのイメージする体罰は、海外のフィルムなどでときどき見る、農業などの効率や生産量を上げるため、そこで働いている子供を鞭で叩き、追い立てるシーンにそっくりではないだろうか!?違いは大人のため(収穫)と、子供のため(学業)なのだが、残念ながら多くの子供は学業がそんなに好きではない。理屈では自分のためと理解できるが、実際のところ子供にとって学業は、押し付けられた「苦役」でしかないのだ。ならば西洋式の体罰は、作業を強いる支配者と奴隷の関係に、極限まで近いものではないかと思う。つまりは虐待にだ。

そしてスキナー以降の学者も、このような体罰をイメージしてそれぞれの研究を行っていたはずだ。そうでなければスキナーの実験は、子供への体罰にそのまま当てはめられないと指摘されているはずだ。ちなみに…体罰の害を検出する実験はたくさんあると思うが、有名なものはネズミの迷路抜けだ。エラーに対して電気ショックを与えるそうだが、これは「害」の検出ではなく「負荷」の検出だろう。非を認めて罪の意識と相殺できれば、害とは思わないものだ)

知識や技能を修得する場合なら、私も体罰には反対だ。叩いたからといって、出来るようになるわけではない。それこそ「何度でも、粘り強く」という姿勢が求められるだろう。出来たときには褒めるべきだし、「出来ないことを叱るものではない」。

子供がピンとくるような分かりやすい説明に腐心すべきなのに、これでは「言葉を惜しんでいる」と指摘されても仕方がない。なるほど「恐怖支配」「暴力の連鎖」という言葉も、当てはまる場合があるだろう。努力しても出来ないことで叩かれては萎縮してしまうし、その恨みの矛先が弱者に向けられることもあると思う。

西洋式に教育全般にまで体罰を広げると、たった今まで理解不能だった体罰を否定する意見が、クルリとに肯けるものに変わってしまうようだ。

(体罰肯定論に「体罰は教育だ」という意見があるが、上記のような理由で私は反対だ。罰はあくまで非に対して発生するもだと思う。「非の無い罰」には、人権侵害を指摘されても仕方がないだろう。部活動のように、教える側と教わる側の利害が完全に一致し、短期間で長足の進歩を遂げるため、両者の合意のもとで体罰が有効に働く場合もあると思うが、それは一般論には出来ないはずだ。西洋でこれが引き継がれたのは、みんなが聖書の言葉を信じ、社会が受け入れていたからに過ぎない。ひょっとすると、これは私と同じことをいっているのかもしれないが、この表現では誤解する人が現れる)

やはり我々は、別のものを見ながらいい争っていたのだと思う。体罰といってしまえばそれまでだが、日本と西洋では負荷(手・鞭)も、子供の捉え方(性善・性悪)も、頻度(止むを得ず・惜しまず)も、理由(過ちへの罰として・教育の効率として)も、体罰の主要な要素が正反対を示しているのだ。言葉を翻訳すれば同じものでも、文化によって内容が異なるものはいくらもある。

つまり世間に流布されている「体罰の害」というものは、古典的な体罰をイメージした西洋でのキャンペーンに使われたものを、そのまま日本に持ち込んだだけなのだと思う。だから我々には、ひとつも肯けないのではないだろう。

たぶん日本の体罰否定論は日本人が提唱したのではなく、西洋人の提唱に日本の人権団体が「乗った(追随した)」という関係のはずだ。ならばオリジナルと同じ理屈でなければ、矛盾や不自然さを生じるだろう。

また実際に西洋ではスキナー実験ような体罰を、(学校だけでも)数百年も日常化していたようだし、これまで針小棒大な誇張に見えていた体罰の害が、古典的な西洋の体罰で考えればすべてが急に肯けるものになる、といったことは起こらないはずだ。

(ここまでを読んでどう思われただろうか。かなり重要なことだと思うので、ぜひ冷静な判断をお願いしたい。違うものを指しているのであれば、議論を仕切りなおす必要さえあるのだ。少なくとも体罰の害というものは考え直す必要があると思う。詳しい事情をご存知の方は、是非お知らせ願いたい)

もし世間に流布されている体罰の害が、我々と別のものを前提にしているなら、我々は日本の一般的な体罰による害を吟味すべきだろう。日本の体罰はなるべく使うことを避けながら、避けようもなく最後に残ったものだ。それは周囲に迷惑をかけるような不道徳を罰することであり、法が介入しない身近な不文律を守るためのものだ(昔の日本人は「よそ様へのご迷惑」を非常に嫌った)。

これは自衛できるということでもある(西洋との最大の違いかもしれない)。日本の親や教師は、出来ないことで手を上げたりしない。努力もせずに0点を取ったら別だろうが、普通はルールを守ってさえいれば体罰の対象にはならないのだ。

これは一般社会にも通じている。大人への刑罰がルール違反以外の、訓練中の知識や技能に適用されることなどまずないだろう。我々はそんな社会罰を、「為政者の恐怖支配」とは考えず、社会正義を守るものだと認識し、受け入れることができる。

またこれは、体罰を受けた世代が体罰を容認している、ということとも矛盾していない。「私が子供の頃は…」で始まる反対派がうんざりしている体罰肯定論は、どれも「(非と相殺出来るなら)害など残らないよ」といっているのだ。我々は自分や我が子への「害」を、庇い立てするほどお人好しではない。

また日本の体罰は、痛みを目的としていない。もちろん負荷がなければ手加減がばれるし、罰として年齢に応じた負荷をかけてはいるが、「道具を使うことをタブーと考える人が多い」のは、痛みを直接の目的にしていない証拠ではないだろうか。道具を使えば、痛くするのは簡単なことなのだ。

しかし痛くさせることなど目的にしてしまえば、怪我をさせるもとになる。つまり怪我のない範囲で、という枠組みがあったのだと思う(いつの時代でも子供に怪我をさせる親はいただろうし、そんな人は非難されていたはずだ)。

すこし話を脱線させるが、たぶん日本式の体罰に異論をもっている人がいると思う。だがそれは80年代以降の中学校のことではないだろうか。この時代の中学校では、体罰が頻発していたようなのだ。

大人の競争社会が中学生まで巻き込み始めたからだろう。ツッパリグループという存在が当たり前になり、教師は競争社会や大人の代表者として、彼らから目の敵にされるようになってしまった。それに対抗するため暴力としての体罰もあっただろうし、一般の生徒が彼らに加わらないよう、これまでより頻繁に体罰が向けられたのではないかと思う。

大人社会の競争を中学校に持ち込み、子供に大きなストレスをかけ反抗させておきながら、それを問題視しなければならないとは、近代化社会は子供にずいぶんな迷惑をかけていると思う。

しかし何度考えても生徒間の迷惑行為や、全体のモラル低下に歯止めをかけるなら、(体罰でないにしろ)何かの罰は必要ではないかと思う。迷惑行為がなくなるなど、おそらくありえないはずだ。

体罰反対を唱える人によると、学校での体罰を廃止した国が増えているということだが、それらの国はなにも罰を用意していないのだろうか。法に明記されなくても、日本の「正座させる」のような慣習的な罰もないのだろうか。「体罰を廃止しよう。替わりの罰も、懲り懲りさせないものにしよう」などという理屈が通るのは、日本くらいではないかと思う。

もし一切の罰なしで上手くいっている国があるなら、そのノウハウを取り入れるのはよいことだと思う。イタズラ盛りを過ぎてしまえば、子供に体罰など急速に似つかわしいものではなくなるのだ。しかし別の問題が生じているなら、罰を廃止したことなど自慢にもならない。被害者や周囲への迷惑を考えれば、罰を無くすことは反社会的な行為といえるのだ。

もし別の罰を考えるなら、受け入れなければならないことがある。「懲り懲り体験」でなければ意味がないことや、すべての生徒が対象になるということだ。結局のところ、自衛をしなければ自分を守れないということは、どんな罰でも変わりがない(昔からおっかない教師はいたものだが、自分を守るには自衛することが最も確実だったので、みんなそうしてきたのだ。もちろん自衛とは、ルールを守るだけのことだ)。

そして制度化しなければ、おかしなことになるのも体罰と同じだ。体罰の問題がやたら揉めてしまうのも、本来は存在しないものだからだろう。だから怪我があれば学校は隠そうとするし、親はポンと叩いただけでも大被害だと訴えることになる。社会に認める気がなければ、どんな罰でも成り立たないのだ。

(体罰を認めれば教師が暴走する、という意見があるが、それは逆だと思う。認めたものには枠組みが生まれるからだ。道具の追放やその違反への罰則は、認めると同時に明文化されるだろう)

体罰がエスカレートしていると考え、反対するのはもちろん個人の自由だ。しかしこれらのことを考え、みんなを納得させる現実的な提案をして欲しい。ネガティブな経験だったからといって、廃止を叫ぶだけなら子供と変わりがない(良いアイデアなら、拒むものなどいないのだ)。

(注:中学生の場合、一般生徒と教師の対立を煽っているのは、ひょっとすれば「校則」ではないのだろうか。だから大人になっても納得できない人が多いのではないだろうか。私の世代でも、日ごろ仲のよい教師と生徒を対立させていたのは、多くの場合校則だった。だとすれば、つまらぬことをしていると思う。わざわざ対立の火種を作っているのだ。校則を無意味だとは思わないが、いくら説明しても納得や妥協のできないものなら、そりゃもともと無理ってものだろう。また公立であれば、学校ごとに違うことも不満の種になっている。このことだけでも妥当なルールとは思えないのだ。精神的な開花を前にし、急速に自意識にさいなまれていく「お年頃」の彼らに、髪形のおしゃれを楽しむ余地くらい残してやりたいものだと思う)

学校での体罰は禁止されているので、このような議論に意味はないという人がいるが、それは違うと思う。たとえば何か「悪法」があるなら、改正を議論するのが普通だろう。この法を支持する人が、「そんな議論してはいけません」と発言するのはおかしなことだ。

体罰の禁止は悪法どころか、日本の美しさをあらわしたものだと思う。しかしこれを成立させていた、「目上を敬う文化」「師の影を踏まずという教育者への敬意」「これらを常識とする家庭教育」「親バレが怖いという抑止力」といったものを、いまやすべて喪失してしまったのだ。

「私が子供の頃は」で始まる体罰容認の意見をよくみて欲しい。かなりの人が、親バレのほうが怖かったと発言しているはずだ。つまり親が教師の後ろ盾になっており、だから教師の「コラ!」でたいていのことは収まってしまい、一部のいたずらっ子以外はあまり体罰の対象にならなかったのだ。

いまや教師は、ストレス発散のために子供を叩く悪者にされている。しかし罰則が飲酒運転の抑止力になっているように、どこかに抑止力は必要なのだ。もし親が抑止力になっていないのなら、教師に余計な手を上げさせているのは、実は親ではないのだろうか。そして子供が教師を非難するのは、親が嫌われ役を辞めてしまったからではないのだろうか。

私の経験では、女子が教師に叩かれるのを見たのは一度きりだった。彼女たちが家庭で体罰を受けたことがあったかどうかは知らないが、男子から見れば嫌味なくらい当時の女の子たちはルールをきちんと守っていた(もちろんそんな男の子もいた)。家庭教育さえできていれば、体罰が廻ってくる心配など必要ないのだ。

また父親が怖くなくなれば、前述したような母親のフォローも必要がない。このことが乗り越え体験を少なくしていないだろうか。今後日本人がどんな罰を学校に用意しても、まず家庭で母親が寄り添い、非を認めて乗り越える練習をしていなければ、「害」として残るか、教師が悪者になるだけのような気がする(負荷のない、無意味な罰なら別かもしれないが)。

さて話を戻すが、西洋での体罰の是非論は、いわばお家騒動のようなものではないかと思う。彼らにとって体罰を否定することは、聖書を否定するほど勇気のいることのはずだ。しかし教育全般に使用した場合の悪影響が確認され、さらに昨今では虐待の隠れ蓑になっていることを含めて、マイナス面が無視できなくなってしまったのだと思う。

そして彼らの最も大きいジレンマは、よほど大規模な啓蒙活動に成功しない限り、中世のままの体罰を使う人が大勢いるということではないだろうか。千年に及ぶ伝統はあまりに明確なイメージを確立しているし、聖書を書き変えでもしない限り、鞭打ちはいつまでも神の思し召しであり続けるのだ。

実際に彼らの聖書崇拝は、我々の宗教心の比ではない、今でも聖書を固く信じ、進化論を否定する人も大勢いるのだ。人権論争に見える堕胎の議論も、実は聖書の思想と現実論の争いという面がある。また信心深い西洋人は聖書を曲解することを畏れ、書かれている通りに信じようとしていると聞いた。これは「鞭を惜しむなとは、厳しくせよという意味だな」と、勝手に解釈してはいけないということだ。

つまり彼らの社会では、精神的に問題を抱えていない人でも虐待に陥る可能性が大きく、人権論として廃止を考える余地が十分にあったのだと思う(実際に中世から近世にかけての学校では、普通に接しているつもりが虐待行為に陥っていた)。彼らにとっても子供の不道徳を見過ごすことなどできないはずだから、体罰廃止に踏み切った西洋国家にとって、これはまさに苦渋の決断だったはずだ。

「先進国は体罰廃止に向かっている」と、西洋に追随しようとする人が多いが、そんな考え方はもう終わりにするべきだろう。妄信的な追随には、差別やコンプレックスが棲んでいる。

これはその国の子育て文化であり、何を禁忌(タブー)と教えているかは、その国の思想や民族性にも関わることだ。よその国に合わせようなどと考えるべきことではないし、西洋人に弱い人の考えにもあわせたくない。

子供を積極的に鞭で叩くという危険なことをしてきたのは彼らであり、別の文化を確立している我々は、手に取ったこともない聖書に振り回される必要はないはずだ。

人権派の人にとって、人権の世界的な統一性は何より重要なことなのだろうが、身の周りの道徳との両立も考えて欲しい。蛇を駆除すればネズミが大繁殖してしまうように、何かをなくせば別のところにも「変化」が現れる。この変化にまで責任の持てる主張でなければ、社会全体からは迷惑なことなのだ。

自分の職務ばかりを優先し、お得意の「人権侵害に見えるところだけ見て、全体や結果にお構いなし」なら、一切の罰は成立しなくなってしまう。抑止力を失えば、却って子供たちを危険に追いやることになるのだ。崖に向かって歩くのをみれば、有無を言わさず引き返させるのが周囲の大人の役割ではないのだろうか。

言葉があるって?子供の知らないルールを責める人がいるだろうか。理解が必要だって?真の理解を待つ必要があるのだろうか。万一崖から落ちたとき、それを本人の自己責任だと考えていいのは、大人に限ったことだろう(子供は崖の近くが好きだということまで知っているのに)。

「昔の人は人権意識がなかったから、体罰をしていた」などという意見があるが、彼らはよその子に迷惑をかけないことと、我が子を可愛がることを両立してきたのだ。不道徳を罰しながらも、道具や怪我をタブーと考える良識を引き継いでくれたのだ。

現在の一般社会のように、過剰でない罰が人権侵害でないなら、これはすべての人権を保ちながら、社会正義を守っていたということにほかならない。ちょっとの妥協と、上手に運用しようという聡明さがあれば、良いとこ取りが出来るというのに。まして、お手本まで用意してもらっているのに。

(人権を統一的にして、体罰を認めることは簡単だ。民族によって体罰や接し方に違いがあると、ありのままを認めれば済むことなのだ。世界人権本部というようなものがあるなら、このような文化の違いをどう解釈しているのだろう。西洋人自身が「こんなに子供を可愛がる国民を見たことがない」と、賞賛をこめた言葉で違いを書き残しているのに、ここでも体罰だけを切り取って非難し、「礼儀正しくのびのびしている」といった感想はお構い無しなのだろうか)

我々の父親達は、普段は優しいながらも、不道徳に関しては顔を真っ赤にして怒ってくれた。こうして子供社会の秩序を守り、ひいては大人になってからも、道徳的に振舞える文化を残してくれたのだ。

彼らの努力は報われてきたと思う。わが国は暴力を認める社会どころか、江戸時代から昭和の中ごろまで、世界でも有数の治安のよい国だったのだ。彼らのこのような実績に目をつぶり、事情の違う先進国と同じであるなどということに、安心や満足を求めてよいのだろうか。

これはご先祖様への義理立てでも、郷愁やセンチメンタリズムでもない。温和な「母性社会と考えられる日本」では、これ以上家庭内から父性を喪失するわけにはいかないと思うのだ。もともと「父性社会であった西洋」のように、これまで突出していたものを抑えるのとは意味が違うのだ(注:母系・父系ではない)。

近代化によるライフスタイルの変化で、日本の父子は会話をする時間さえ持てなくなっている(世界最悪水準だそうだ)。また「子供のことは妻に任せている」という時代があり、これを引き継ぐ考え方はいまだに根強い。そして子供と積極的に関わろうという父親も、社会への道先案内をする前に、お友達になることに精一杯の状況だ。

これではお勉強以外に、子供に進むべき方向をしっかりと指差せない。家庭内に安らぎを提供するものの重要性と同様に、近隣者同士がお互いを尊重しあい、我が子であってもその不道徳を糾弾する、社会正義を掲げるものも必要なのだ。

子供と密着しやすい日本の母親には「苦痛の大きい作業」だから、日本人は「父親の役割」として、子供を罰するということを考える必要があると思う。

さらにいえば思想や宗教という、自分を律する「道徳テキスト」を喪失した民族だからこそ(こんな民族他にはない)、父親は、いやすべての親は、道徳をリレーする責任を感じる必要があると思う。

蛇足ながら…戦後の家庭教育を席巻した、「叱るより褒めよう」の「叱ることの害」も、害が出るような叱り方で害を検出し、必ず害があると思わされているのではないだろうか。それともみんな叱られたことを、大人になってからも害だと認識しているのだろうか。

そうでなければ、ここにも現実との矛盾がある。害が出るような叱り方の害を見て、叱ることは良くないといっても仕方がないだろう。

「叱る」も「褒める」も「罰す」も「許す」もなんでも程度の問題で、どれも必要なもののはずだ。要・不要のような二元論ではなく、ケース(経緯)やバランスを考えることが何より重要ではないかと思う。おそらくこれらはお互いがコントラストになり、その存在意義を高めあっているはずだ。

「叱るのはいいが、怒ってはいけない」というのも同じだ。親が子供に喜怒哀楽を隠すことに、どれほど意味があるのだろう。これもやはり虐待を意識しすぎ、常識のほうが侵されているようだ。

何度も言ってあることが守られないから、親は怒ってしまうのだ。そして親は子供に、理解できないようなことを要求していない(真の理解は精神の開花を待たなければならないが、何をいっているかは分かっているはずだ)。ならばこの場合「守らなければ相手がどう思うか」や、「ルール違反には限度がある」といった知識を教えるチャンスではないのだろうか。

戦後の家庭教育は、舶来品をありがたがり、文化の違いも考慮しない識者や教育書によって、現実や常識論のほうが大きくスポイルされているように思う。そこだけ切り取った研究結果を、犯すことのできない科学的な事実として、前後の脈絡も考えずに「絶対視」しすぎるように見えるのだ。

ばい菌が危険だという説明は正しいが、無菌室でなければ安心できないというのであれば、その説明や理解のしかたは間違っていると思う。たとえば小さな火傷の経験が、その後の人生の大きな火傷を回避するなら、害であってさえ子供には有益な人生経験になるのだ。

子供の場合「乗り越えられるもの」なら、害の部分ばかりを見ようとせず、得られる利益も考えるべきだと思う。無菌室は長くいるほどそこから出られなくなる、一番危険な場所でもあるのだ。

みんな子供のことを真剣に考えているのに、これほどの対立が生まれるのはどういうことだろう。体罰の是非には、何か根本的な問題でもあるのだろうか。

そう考えているうちに、こんなふうに思えてきた。ひょっとすると体罰の是非論とは、父性と母性の対立ではないだろうか。男女がお互いの気持ちをなかなか分かり合えず、しばしば対立してしまうように、父性と母性がその行動原理のままに発言しているから、いつまでも理解し合えないのではないだろうか。

ネットを覗いてざっと数えただけでも、男性は賛成派・容認派が、女性は反対派・慎重派が多いようだ。男女の違いは、体罰の是非に大きな意味を持っていると思う。

(ただし父性と母性は男女ともに持っており、その割合が傾向として現れるものだ。だから男女の争いというより、何を中心に考えるかの争いであり、結果的に男女の傾向が見え易いということだ。また、叩くことが父性なのかという反論もあるだろうが、叩くというよりきちんと罰するということだ)

父性のキーワードは「切断」であり、母性は「包含」なのだそうだ。切断とは子供を善悪・上下などで二分し、悪は正し、下であれば鍛えようとする。包含とはいかなる区別もつけず、ありのままを受け入れ、包み込むということだ。

いきなり善悪という言葉が出てきたが、両者の態度は体罰の是非そのもののように見える。母性は無条件な愛であり、常に許しだが、父性は条件つきの愛であり、悪と見れば許すことが出来ないのだ。

また、切断とは子供に対して「分離・自立」を迫るものであり、これは外部(社会)への指向ということだ。逆に包含は「密着・依存」を意味し、これは内部(家庭)への指向といえるだろう。

これも体罰の是非と大きく関わっている。罰せられる側から見れば、罰は人権侵害に見えるのだろうが、社会の側から見れば、罰はみんなを守るための社会正義だ。どちらを中心に考えるかで、被害に見えたり、当然の仕打ちに見えたりする。

やはり体罰の是非は、父性と母性の対立ではないのだろうか。体罰の是非を煎じ詰めれば、「子供を守る」と「道徳(社会正義)を守る」に分かれ、これは父性と母性の指向と奇麗に重なっているのだ(父性と母性を表すキーワードはほかにもたくさんあるが、おおむね上記のものと関わっているようだ。父性は社会の側から、その厳しさに子供を合わせようとするが、母性は家庭の側から、その安らぎを子供に与えようとしている)

ところがこの違いがそれぞれに役割を与え、子育てに有利な分業を成立させているようだ。社会の規範を尊重し、失敗を責め、やり直しを要求する父性により、子供はより高度な社会性を獲得する。

何度失敗しても容認してくれる母性によって、子供は自己を否定したり、諦めたりすることがない。母性が子供に満足・安心・安定をもたらし、父性の厳しいハードルを乗り越えさせているのだ。

父性と母性は対極にありながら、お互いにないものを上手に補って、ひとつのものの完成に貢献しているようだ。この関係は「相互補完」というものだろう。愛情といってしまえばそれだけだが、たぶんいくつもの愛し方があり、シーンによって使い分けが必要なのだと思う。

この違いはやはり、子供を生んだかどうかに大きく関わっているのだろう。母親は我が身を揺り籠にして、文字通り血肉を分けて子供を育み、生死を賭けてこの世に送り出している。分身という意識があり、密着傾向が現れて当然のように思う。

逆に父親は「妻が子供を産んだので、自分は父親になった」という間接的な関わりしか体験していない。

また母親が乳房を持っているのは、乳幼児を育てる役割を負っているということだろう。乳幼児というのは、いつ死んでもおかしくないほどか弱い存在だ(ごく最近までそうだった)。母子ともに利己(子)的であることが、この時期の生き残りには欠かせないことだと思う。よその子のことなど、気にしてはいられないのだ。

この時期の父親の役割は、母子への食糧供給だ。これがなければ母親の子育ては、根底から成立しなくなってしまう。どうも母親は子供を生んだことで、一時的に利己(子)主義を帯び、父親は親になったことで、これまでより強い社会性を手に入れることになるようだ。

さらに父性と母性は、指向性の違い以外にも「対立の火種」を持っている。父性の切断には、「母子の密着を切り離す」役割もあるというのだ。父性の側からすれば子離れは、子供の成長を考えれば当然の営みなのだが、強い母性を持つ母親には身を切られるような苦痛があるのかもしれない。父性はその役割へのターミネイター(終わらせるもの)なのだ。揉めて当然ではないか?

父性と母性の対立が表面化する理由は、少子化の影響ではないかと思う。多産であれば母性の対象は順に下の子供にシフトしていき、そのやり場に困ることがない。また、手のかかる乳幼児を複数持つことが大きな負担になり、自発的に上の子供の「分離・自立」にも協力的になっていけたはずだ。

さらに避けようもなく繰り返される兄弟喧嘩で、いつも下の子が上の子に泣かされているのを見れば、むしろ母親から厳しい対応を求めていた可能性さえ考えられる。いま母性の対象となっている下の子への被害には、我が子であっても上の子に強く干渉したはずだ(女性の皆さん、我が身に置き換えて考えてみてください)。

やはり体罰の是非は、父性と母性に大きく関わっているのではないだろうか。もともとの指向性ばかりでなく、少子化というライフスタイルの変化まで、対立を矛盾なく説明できるのだ。

もしそうなら父性と母性は歩み寄る必要がある。子供を育てているのは、間違いなく一組の男女なのだ。そしておそらく父性も母性も、子供には必要なはずなのだ。どんなことをイメージしてもいい、エラーを許せる広い心と、それをきちんと改めさせるだけの力がなければ、高い理想には手が届かないのではないだろうか。

(役割論を語れば、女権運動の人には強い反発があるかもしれない。しかしこれはあくまで傾向のハナシで、役割が逆転することは各家庭の自由だろう。ただ同性であっても人が二人いれば、「ボケ」と「突っ込み」のように、自然に役割が分かれるのだ。同じことしかできない二人より、それぞれが得意分野を持っているなら、足りない部分を認めあい、フォローしあえる二人であろうとしたほうが、広い視野で子供に接することが出来るという話だ)

西洋には「ベターハーフ」という言葉がある。天上界にいたとき人間は完全体だったのに、この世に生まれたときに半分に引き裂かれ、以来人は、もう半分の自分を捜しているのだという。

なんだかおとぎ話めいているが、父性と母性は相互補完的なものだと考えるなら、これは現実をほとんど正確に言い表している。自分ひとりでは不完全であり、配偶者が自分に足りないものを持っているというのだ。

子育ては一組の男女の共同作業だ。考えに対立が生じたとき合意を得ようと思うなら、お互いへの歩み寄りは不可欠だろう。自己主張ばかりをして結論を得ていれば、口先の達者なほうや、腕力の強いほうに正しさが偏る。

こんな時ベターハーフという言葉は、自分に足りない部分があるということを無理なく肯定させ、誰もが苦手な「譲歩」をサポートする心配りがあると思うのだ。

納得しきれない考え方に譲歩するには、相手への信頼が欠かせない。この信頼を育むため男女は恋愛をし、子供を作るのだろう。営みのすべてが次世代への布石になっている。

しかし厳しさと優しさを分業にしたのは、神様のグッドアイデアではないだろうか。一人に両立させようとすれば、どちらも中途半端になり、その意味を大きく損なうだろう。上手にできるほう、徹することが出来るほうを、専門家に選んだのだ。

シングルで子育てをする人も、本来は二人でやることだと知っているから、自分の役割でないものまでフォローしようと考えることができるのだ(前述したバランスだ)。おそらくこの柔軟性と想像力と自制心を持った人ならば、シングルのハンデを乗り越えて、人間の男女のもつあらゆる情緒を子供に触れさせ、普遍的な子育てに成功するだろう。

そして分業であるからこそ、どちらかの暴走にブレーキをかけることもできる。「甘やかす」ことも「厳しすぎる」ことも、過ぎれば毒になりかねない。つまり譲歩とは役割を投げ出すことではなく、今回は「監視役」に回るということなのだ。

父親が体罰に踏み切ったとき、「お父さん、もういいじゃありませんか。さぁたろう君、お母さんも一緒に謝ってあげるから、御免なさいしようね」母親のこんな言葉が父親の暴走を未然に防ぎ、落ち着きどころがなくなっている話をまとめ(父親だってこの状況に慣れていない。たいていの父親は、この言葉を待っているのではないか?)、結果的に「お母さんは優しい人」になっているのだ。

そして父親は「厳しいモラリスト」になっている(ついでに書けば、母親は父親に同意を示す、優しいモラリストだ)。

たったこれだけの自然なやり取りが、望ましい相互補完を実現しているように思える。前述した、父親の体罰を母親がケアすることも同様だ。お互いが「主張(出番)」と「譲歩(監視役)」をわきまえることで、自然に相互補完が成立するのだと思う。

たぶんこれら全部を含めたものが、その家庭の体罰なのだろう。なぜなら自分の過ちを知り、これらすべてを経験する子供だからこそ、叩かれたことだけを切り取ることができないからだ。

フォロー役を、脇役だと思う必要はないと思う(日本の場合いつもは母性が主役だ)。父親の「正義の権威・圧力」が子供のわがままを強く抑制し、母親の日常的な「言葉の教育」を支援することになるのだ。ベターハーフであればこそ、両者は個別のものではなく、一体化して見える。

(一部略)

「体罰の是非論は、父性と母性の対立だ」という私の説を、なんとか信用してもらえないだろうか。こう考えれば、かなり常識的なところで決着がつくと思う。あるいは和解の糸口になると思うのだ。

なぜ私がこのように「お頼み」するかというと、そろそろこの問題に決着をつけてもらいたいからだ。この議論を重ねてもう30年近くになるが、今のままでは子供や若い世代に混乱と迷いを生じさせ、人々や大人と子供に誤解と対立を招くばかりだ。

多少の妥協を受け入れなければ、100年経っても物事は解決しない。繰り返しになるが、既に30年近く費やしているのだ。子育てという「生物の最も根源的な営み」に、常識が確立していないなどということは、あってはならないことだと思う。

人権論を主張する人は、人権意識の高い人と低い人の対立だと考えていると思う。しかし、人権論といわれれば無批判に受け入れる人ならともかく、普通の人は自分の感情を出発点にして「考え」、それを補強してくれる理屈を採用するのではないだろうか。

男女の感情の違いといえば、このような話もある。パートナーの裏切りを知ったとき、男女によって責める相手が異なるそうだ。男性は裏切ったパートナーを責め、女性はパートナーを裏切らせた女性を責めることが多いという(誤解がないように書くが、あくまで傾向)。どうも女性は男性に比べて、愛するものの非を認めたがらず、それをよそに見出すようだが、これも体罰の是非と関係がないだろうか。

また叱られるという事も、男女によって受け取り方が違うのだそうだ。たとえば職場で「この企画書では駄目だ」といわれたとき、男性はその企画書が悪いと思うが、女性は能力や人格まで全否定されたように、大きなショックを受けることがあるのだそうだ(職場で泣くのはたいてい女性だ)。

どうも女性のほうが、叱られるということへのダメージが大きいようだが、これも体罰の是非と関連がありそうに思える(ならば男の子と女の子とでは、体罰も同じように扱えないのではないだろうか。腕力が弱いということだけでも、それへの恐怖心が大きいかも知れない)。

父性・母性でなくてもこれほど感情に大きな違いのある二人が、共同で行わなければならないのが子育てだ。お互いが譲歩し合い、協調し合えるような考え方が、ぜひとも必要だと思う。

ベターハーフなどを持ち出すと、多くの人はおとぎ話だと笑うかもしれない。女権運動家には、取るに足らないカビの生えた旧弊な考え方だろう。しかしこの言葉をいい伝えてきた人たちは、我々よりはるか昔から、個人主義を自然な身の回りの文化としていた人たちなのだ。たぶん個人を尊重する考えとそう矛盾するものではない。むしろ現代的な、「違いのあるもの同士が、お互いを認め合う」ためのおまじないではないかと思う(譲歩は根拠を求めているはずだ)。

たとえ話だから嘘にも見えるが、父性と母性はネガ・ポジのような構造になっている。この違いを対立で終わらせず相互補完として活かそうと思えば、これほど上手い説明は無いと思う。

またこの言葉は、子育てを終えた世代から、子育てを始める世代に贈られたはずだ。このリレーが絶えなかったのは、子育てが終わってみれば、次の世代に伝えるだけの「確からしさ」を感じることができたからだろう。

さらに子育てばかりではなく、もともと血のつながりのない男女が家族になるためには、とても都合のよいおまじないではないだろうか。家族・一族という言葉からは、血の繋がりをイメージしてしまうが、その出発点となる夫婦にはそれがないのだ。特別なつながりという考え方は、好都合ではないかと思う。

もちろんこういってみたところで、親は自分のパートナーを、必ずしもベターハーフであると信じることができないはずだ。我々が生涯に言葉を交わせる異性は、全体から見ればあまりに少なすぎる。

しかし子供にすれば、(遺伝子や、発生のメカニズムを知らなくても)自分は親の半分ずつから出来ていることをなんとなく知っている。親が一対のものでなければ、子供は体を二分されるような、錯覚や不安を覚える(私にはそんな記憶がある)。両親がベターハーフであることを、誰よりも信じているのはきっと子供なのだ。

子供が親離れを始めるまでは、つまり個人として歩み始めるまでは、ベターハーフというおとぎ話を一緒に信じてやれないものだろうか。

最後に体罰のハナシから離れてしまった。ベターハーフなど、所詮おとぎ話だ。こんなことは信じなくてもいい。反対論の人からも、議論をすり替えていると批判を受けることになるだろう。

しかし体罰の是非を考えるとき、配偶者を得ているなら自分の意見でなく、配偶者と話し合った結論をその家庭としての意見にして欲しい。考えを一本化しなければ子供が混乱するし、こんなことさえ出来ないようでは夫婦ではない。これはなんとか認めて欲しい。

夫婦で出した結論であれば、それがどっちに転んでも、私はそれを支持しよう。

END

【長文にもかかわらず、読了くださって有難うございます。 感謝を込めて 椎葉一】

2010年11月16日 (火)

1 父親の役割をよく考えれば

「子供のことは、おまえに任せてあっただろう」

私が少年だった頃、テレビのホームドラマで、このせりふがよく使われていた。昭和50年頃から、バブルがはじける頃までだ。

 当時の私はこのせりふを聞くたびに、なんだか不愉快になったものだ。どうにも無責任な言い分に感じたのだ。しかし当然のことのように、また何度も聞かされたため、これが普通なのだと思うようになった。

 現代でも、このような父親は少なくないのだろう。仕事熱心を装いながら、結果的に非常に楽ができる。しかし良識のある父親は、父親の役割を捜しているようだ。だが長く続いた父親不在の時代が、父親の役割を見失わせ、その間に家庭というもののあり方も大きく変わっていた。現代の父親に課せられた「父親の役割」とは、いったいどのようなものだろう。

インターネットで父親の役割を検索すると、いくつもの考えを目にすることが出来る。勇気・努力・道徳・倫理を教えること。あるいは「家族をまとめる」「文化を伝える」など、どれも肯けるものばかりだ。しかしたくさんあることが、かえって混乱を招いてもいるようにも見える。

そしてこれらをよく吟味してみると、母親にも出来ることばかりだし、実際に母親は行っているはずだと思う。これらは「父親の…」という、性差による分担にはなりきれないのではないだろうか。

昔は、性差によるライフスタイルの違いがはっきりしていたし、子供の頃からそれに合わせた教育を受けている。性は分かれることが目標だったのだ。

しかし男女平等の現代では、性差による教育の違いはほとんどなく、成人してからも子供ができるまでは、男女とも同じような生活を送っている。性は分かれ過ぎないように制御されているのだ(性差より、個人差のほうがばらつきがある)。

結婚をしてから、あるいは子供が生まれてから、つまり家庭の中でだけ性差はクローズアップされてくる。最近では、それさえ否定しようと考えている人もいる。

そして日常の体験を振り返っても、勇気・道徳・エトセトラも、必ずしも男性のほうが優れているとは考えにくい。

逆に母親の役割を検索しても、優しさ・いたわり等が出てくるが、これらは男性にも必要な資質だ。慎重に考えるほど、たいていの事柄は、性差で分離しきれないのだ。

どうしてなのか考えているうちに、こんなことに気がついた。もともとこれと言えるような、父親の役割などないのかもしれない。学者の言う「父親の役割」とは、伝統的な生活を続けているある集団で、父親と母親の役割を比較した結果、おおむねこのような傾向が見られた、というだけのものなのだ。

この集団にいた父親が、みな同じ子育てをしていたわけではないし、ひとつの概念ばかりを考えていたわけでもない。つまり父親にある程度の男性らしさがあり、母親に女性らしさがあれば、結果的に、なんとなく性差が表れるということに過ぎない。

相反する必要な概念に、たとえば「厳しさ」と「優しさ」に、あらかじめ片方ばかりを優先しようと考えることには、場合によっては危険さえあるかも知れない。

しかし私は、男女は平等であるが、同一ではないと考えている。やはり父親の役割にこだわってみたい。これまでの状況を見ていると、父親にしかできないことが、父親の役割のように思える。そこで、ふたつの考えを提案したい。

ひとつは、厳しく叱ることだ。

もちろんこれは、母親にも出来ることだ。しかし母親は子供と過ごす時間が長く、お小言を含めて、日常的に子供を叱っているはずだ。厳しく叱ることまで母親に背負わせたら、「叱ることが母親の役割」になってしまう。叱るという作業を夫婦でシェアするなら、厳しく叱ることが父親の役割になるのではないだろうか。

この役割分担には、よい効果があると思う。

まず、母親の叱る役割を軽くすることで、母親がヒステリックな叱り方をすることを回避できる。いつも小言を言わなければならない母親は、正直へとへとになっているだろう。

また母親を叱る役にしてしまうと、彼女の子育ては楽しいものではなくなるだろう。これは望ましくない状況だと思う。また子供にしても自分の母親は、優しい人であって欲しいのではないだろうか。

さらに、少しゲスな表現だが、母親のバックに厳しく叱る父親がいると子供が考えれば、母親の叱る作業が楽になりその回数が減ると思う。その分笑顔が増えるはずだ。

やはり父親が、厳しく叱る役をかって出るべきだろう。母親をサポートすることは、父親にしかできないことなのだ。もちろん近寄りがたいほど、厳格である必要はない。優しいけど、怒ったら怖い父親であればいいと思う。

もうひとつの役割は、子供と母親を引き離すことだ。

もちろんこれは、母親から子供を取り上げるということではない。父親が、家族と過ごす時間を大切にするということだ。現代の家庭では、母親と子供が密着的に暮らしている。母親の影響ばかりしか、子供は受けられない。この状況を許すなら、そもそも父親の役割など考える必要がない。

また、いくつもの社会問題の原因が、母子の密着にあると考えられている。これから非常に重要視される、父親の役割になっていくと思う。こうしていれば、母親が気がつかないことに気づき、子育てに欠けた部分がないように気を配ることにもなる。母親には少しきつい言い分になるが、母親とて完璧でないという批判眼も、ときには必要だろう。

これらの父親の役割は、母親を助けたり、救ったりするようなことだ。性差を意識すると、このようなことがクローズアップされるのだ。

では父親が子供にしてやれる、父親の役割はないのだろうか。いや、そんなことはないと思う。それは父親が、男性らしくあろうと心掛けることではないだろうか。これは誤解を受けやすいが、もちろん乱暴に振舞うということではない。

いつもは穏やかだったり、寡黙だったりしていても、ここは男の出番だと感じたことには、臆せず行動するということだ。

たとえば母親が重い荷物を持っているとき、「私が持とう」と声を掛けるようなことだ。もしその荷物が、なにか厄介な問題に変わったとしても、同じことができるかということだ。

こんな行動力を持っていれば、たとえば優しさを示すことでさえ、子供の目には素敵な男性らしさと映るだろう。父親が子供にしてやることは、すべて父親の役割として必要なもではないかと思う。

親の役割を考え、これは父性的なもの、これは母性的なものと、分類する学問はあるのだろう。これらを知ろうとすることは、大切なことだ。「文化を伝える」などは、なおざりになっている家庭も多いと思う。

しかし父性的なものだからといって、「父親の役割」だと決め付けないほうがいいと思う。性差よる役割分担を意識することよりも、お互いに欠けている部分をフォローし合い、過剰な部分を注意しあっていれば、おのずと性差は浮かんでくるものだと思う。

両親の役割分担について、こんな説がある。

「母親の役割は、子供を生き延びさせることである」

「父親の役割は、生き延びた子供を、社会化させることである」

この説は、魅力的だと思う。

もちろん、生き延びさせるも、社会化させるも、両親の役割だ。どちらかに限定できないもので、大まかな傾向に過ぎない。

なぜこの説に魅力があるかというと、前述した、道徳・倫理・優しさ・いたわり・文化を伝えるなど、親の役割をすべて含み、究極的な子育ての目標を一言で言い表しているからだ。

曖昧な表現だが、それが父親の自由度を高めている。そして父親の、本来のキャラクターを否定していない。

そしてもうひとつの魅力が、子育てには段階があることを示唆している点だ。多くの役割論は、性差ばかりを意識しているが、子育ての段階を考慮しているものは少ない。子育てに、成長に合わせた変化をつけることは、非常に重要なことだと思う。

そうしなければ親はいつまでも子供に、幼児のままの接し方をしてしまう。なるほどと思わせるような状況を、身の回りで目にしたことはないだろうか。

守ってやるだけの子育ての時期と、社会化を強く意識する時期の分岐点をきちんと検討し、社会化の作業を具体的に検討する必要があると思う。

社会化させることは、かつては自然で、容易なことだっただろう。

義務教育ができるまでは、子供は社会に出るまで、家族とずっと一緒に暮らしていたのだ。母親から家事を習い、ハウスキーピングを学びながら、たくさんの会話を持つことができた。

家業を手伝うことで、職業訓練をしながら、父親を教師として社会と接していたのだ。さらに村社会のような地域社会があったため、近所の人でさえ、子供の社会化に手を貸してくれたのだ。

また社会は現代よりずっと小さく、多くの人にとって歩いていける範囲が社会だったのだ。

義務教育が行き渡った後でも、子供は家事労働や、家業の手伝いとは無縁でなかったはずだ。親子の接する時間が極端に短くなったのは、歴史的に見ればごく最近のことなのだ。

さらにはテレビが登場するまでは、家庭には団欒があり、そこにはたくさんの会話があったのだ。

では現代において、子供を社会化させるにはどうすればよいのだろう。かつてのように自分の仕事を手伝わせるなど、現代の会社員にできるはずもない。また交通網の発達により、社会は地球の裏側まで続いている。そこにはたくさんの価値観が存在し、何が正しいことなのかさえ判断に苦しむことさえある。

社会化という言葉は簡単だが、複雑で巨大な現代社会を考えると、なかなか一筋縄ではいかないようだ。

だから多くの親は、せめて子供の意思がかないやすいように、子供に高学歴を望むのだろう。現代では高学歴を獲得することが、社会化の主題となっている。

この考え方は間違ってはいない。高学歴が、子供に有利に働く場合が多いことは確かだろう。しかしそれは、社会化の一部でしかないように思う。

私なりの考えを述べるなら、もっとミニマムなところに重要なことがあるのではないだろうか。

現在多くの人が、組織の中で働いている。しかしそれがどんな巨大企業であっても、日々言葉を交わし、共同で作業を行っている人は、せいぜい数十人ほどではないだろうか。個人で仕事をしている一匹狼にしても、仕入れ元や、出荷先の人と無関係ではいられない。

よほど世捨て人のような生活をしない限り、人は身の回りの人々ともに暮らしているのだ。彼らに受け入れられ、協調していける人間性を得ることが、社会に溶け込むこと、つまりは社会化そのものではないだろうか。

高学歴を望むことは「制度への社会化」と考えることができる。制度や仕組みなのかに、よい立場で同化しようとすることは重要なことだ。

では、身の回りの人と協調できることは、「人間への社会化」と考えることができるのではないだろうか。

このセンスがなければ、今後どのように社会が変化しても、どのような組織に所属しても、家族や友人に対しても自分を活かせず、孤立的になってしまう心配がある。

「人間への社会化」については、父親ごとに考えるべきだろう。望ましい人間像は、人によってニュアンスが違うはずだ。父親ごとにそれをイメージし、方法を考えるべきだろう。これこそ父親のもつカラーであり、父親の数だけそれはあると思う。

私が「社会化させること」という説に魅力を感じるのは、この自由度があるからだ。

この作業に不可欠なことは、父・子の人間関係の再構築ではないだろうか。日本の父親は一度、「子供のことは、すべて母親に任せている」という、「丸投げ」の時代を経験している。彼らの子供たち(つまり我々は)、父・子の接し方を受け継いでいない。今ではそんな世代が、父親になっているのだ。

この新しい父親は、アメリカ製のホームドラマを思わせるような、優しいファミリーパパになっていった。たぶん、かまってくれない現実の父親でなく、ブラウン管の中に理想の父親を見つけ、手本にし始めたのだと思う。人は手本がなければ、どう振舞えばよいのかが分からないのだ。

もちろん優しい父親を否定しているのではない。子供が気安く話しかけることができない父親では、その役割が果たせないと思う。だからここは誤解しないで欲しい。

問題は優しくあろうとするばかりに、上下のないお友達になろうとしてはいないだろうか。ドラマに出てくる憧れのシーンばかり真似て、そこにたどり着くまでの道のりを忘れてはいないだろうか。

子供はこれから自分が属していく社会の中で、孤立せず受け入れられるセンスや知識を求めている。生きていくために必要な、知識や技術を身につけたいと思っている。ひとり立ちをする前に、これらのものを手に入れなければならないという、本能が働き始めているのだ。

ここで子供に必要なのは、優しいばかりでお友達のような存在でも、厳しいばかりで近寄りがたい存在でも、顔を合わせることさえまれな同居人でもない。そばにいて根気強く、自己犠牲さえいとわずに、それらを身につけてくれる指導者だ。

子供はたぶん「教わりたがり屋さん」なのだと思う。この欲求を満たしてくれることが、父親という認識には必要なのではないだろうか。

この面でも、昔の父親たちは有利だったと思う。火をおこすことから、小物や玩具を作ることまで、すべてが手作業だったからだ。ほとんどの手作業は、熟練者である親のほうが上手にできたはずだ。だから現代の親たちよりずっとたくさんの、「ほら、こうやるんだよ」というシーンを経験したはずだ。

何かを教わり、今まで出来なかったことが出来るようになることは、ほとんどの子供にとって嬉しく、誇らしいことだろう。子供は父親から教わることに喜びを覚え、父親といる時間を楽しみにするに違いない。

何かを教えるという作業を通して、感謝や、信頼や、尊敬が育まれていくのだと思う。この経験の積み重ねが、子供の中で、父親の存在を大きく重いものにしていくのではないだろうか。これが父親の「権威」の、あるべき出発点だ思う。

おっと、あまり大げさに考える必要はないと思う。趣味や、スポーツや、遊びでかまわない。「お父さんといると、いろんな経験ができて楽しいな。もっと色々教わりたいな」と子供が考えるようになれば、それで十分ではないだろうか。

たとえば、水泳や、自転車や、逆上がりなどにさえ、喜びと感謝の記憶を持っている人は多いと思う。

教えるという作業の繰り返し。これから生じる尊敬や、感謝に裏打ちされた権威がなければ、父親のあらゆる教育はむなしいものになるだろう。

権威という言葉を嫌う人が多いが、このような自然な権威がなければ、教育は上手くいかないものだと思う。

考えてみれば、子供にとって父親とは、なぞの存在なのかもしれない。

母と子の人間関係は、子供でも納得しやすい。産み月の近い妊婦をどこかで見て「あの大きなお腹には、赤ちゃんが入っているんだよ」と教わったことは、おそらく誰にもあるはずだ。あれを見れば、自分と母親の関係は直感できるはずだ。

しかし、父親の場合はどうだろう。

ある人気タレントが久しぶりに自宅に帰ると、まだ幼い我が子に「おじさん、また来たの?」といわれたそうだ。父親との関係は、母親より分かりにくいものだと思う。私自身、私が生まれたことに父親が深く関与していたと理解できたのは、5年生の性教育の時間が初めてだった。(いやー、あの時は納得したというより驚いた)

もともと父親と子供の関係は、母親より弱いものかもしれない。母親は産んでくれたという実績だけで母親となれるが、父親にも何か実績が必要ではないだろうか。それはやはり、時間を割いて育んでくれたという記憶ではないだろうか。

この結びつきの弱さは、子供の側からだけではないかもしれない。

母親はまだ子供が胎児の頃から、わが身をシェルターとしながら守り、育み、絆はその頃から始まっている。さらに出産という、生死にも関わりかねない冒険をともに経験する。産んでからは、自分の体から染み出す乳を与える。文字通り血肉を分けて、この世に送り出しているのだ。

父親はこれと比べると、二次的というようなかかわりしかできない。妻が子供を産んだので、自分は父親になったという、子供とは間接的な関わりしか持っていないのだ。出産を経験しない父親は、親になったという実感も、母親よりずっと小さいのではないだろうか。

この温度差は、父・母の双方が考えているより、ずっと大きな隔たりがあるとおもう。

かわいいと思うだけなら、どの子供にもそれぞれのかわいらしさがあるのだろう。自分との繋がりを感じてこそ、我が子にしか向けられない特別なかわいさや、情緒を感じることができるのだろう。

だからこそ父親は、子供と直接的に関わる時間が必要だと思う。子供と触れ合うときに発見する肉体的な共通点や、表情や、仕草や、精神的な共感によって、初めて子供との繋がりを、心から実感できるのではないだろうか。

その積み重ねが、父親と子供の絆を強化するのだと思う。

父親のこの感情は、日常生活にも反映され、きっと子供にも伝わるだろう。

父親が子供と時間を過ごすことは、考えている以上に大切なことかもしれない。

父親との何気ない会話から、子供はたくさんの影響を受け、それを社会へ飛び立つ糧としている。

子供との何気ないふれあいから、父親は子供との絆を日々深めていく。

妊娠・出産をともにしない、いわばある日出会っただけの二人が、親子になるの日必要な時間とも言える。

こう考えると父親というものは、なろうと考え、行動したものだけがなれるものではないだろうか。

子供は本当の父親と会える日を、産まれた日から待っている。

追記…

本文の中で、子供の成長段階を意識し、接し方に変化が必要だと書いた。これはたぶん多くの人に支持してもらえると思うし、これまでの親も考えてきたことだと思う。しかしそれは、きちんと実施されているのだろうか。

昔は下の子が生まれるとによって、自然とこれは実施されただろう。親の持つ時間を分配しなければならないからだ。たぶん上の子供には、我慢を強いるシーンが多くなるに違いない。そして子供にも兄・姉になったのだという、変化への動機が生まれるはずだ。

家庭内での役割が少し変わるという現実が、無理にでも変化を強いるのだ。

しかし少子化の現代では、このような明確な出来事がなく、親も上手に変化し切れていないのではないだろうか。

たとえばパパ・ママという呼び方は、我々の時代では幼児語だった。今これを、大人になってからも使うことが不自然なことでなければ、ふたつの時代の間に、幼児語を改めさせようと考えなかった時代があったはずだ。それがやがて多数派となり、現代の状況になったのだ。

頭の固い、気難しいオヤジの意見に聞こえるかもしれない。しかし呼び方を変えるということには、段階付けの意味があると思う。

私の体験だが、たしか幼稚園を終える頃に、親からそうするように言われた。最初戸惑いがあったが、すぐに「自分は少しお兄ちゃんになったのだ」というような気持ちになったのを覚えている。

そして何より、親の心に変化が現れないだろうか。いつまでもパパ・ママと呼んでくる子供と、お父さん・お母さんと呼びかける子供では、違った扱いをし始めないだろうか。あるいは変化の時期が、先送りにならないだろうか。

これは結果論なので、比較することが出来ない。しかし子育ての段階を考え、変化が必要だと決意したのは自分であると、親には記憶や証拠が残る。まったく無意味なことでは無いように思う。

さらに少年期の子供が思春期(あるいは青年期)に入る頃に、家庭内のニックネームから、呼び捨てに変えることも有効だと思う。子供に、もう子供であり続けてはいけないと自覚させることにもなろうし、親の子離れを促すことにもなると思う。たぶん「○○ちゃん」であるうちは、まだ子供だと考えているのだろう。

家庭内では許されるとしても、家庭の外、つまりよその人の前では、いつかはそうするべきだと思う。家庭の内・外にけじめをつけようとしなければ、それは子供の「社会化」に反する考え方ではないだろうか。

小学校にあがる、中学校にあがる、といった家庭外での変化があるのだから、それを機会に家庭内にも変化をつければ、変化はより明確となる。

女性が優しい呼び名を好むものだと仮定すれば、この提案をするのは父親の役割となるだろう。もし私の提案に意味があるかもしれないと考えたなら、父親の皆さんは検討してみて欲しい。

2 母心アラカルト

母と子の関係は、子供が小さいうちはたいてい良好に見える。母親は誕生の瞬間から子供ともっとも身近に接し、手をかけ、信頼を勝ち得ている。少年期を迎えてからも、父親と比べて子供と一緒にいる時間が長く、会話の時間も多くもてる。

特に娘のトラブルに対しては、自分の経験から、適切な助言を与えることも可能である。

しかし良好な母子関係が、いつかしらこじれていく事がある。

「うちの子育てはうまくいっている」と感じている母親こそ、いま一度子供との接し方を考えてみて欲しい。母親の強い愛情が、いつの間にかマイナスに作用し始めてはいないだろうか。また女性としての考え方が男の子に、反発や、すれ違いを与え始めてはいないだろうか。

あなたにとっていい子とは、どんな子供だろう。たぶん親の言うことを良くきく、お行儀の良い、実年齢よりもしっかりした子供ではないだろうか。

大人のように聞き分けよく育てることは、もちろん間違ってはいない。子育てとは、つまりは大人にすることだからだ。

しかし一朝一夕にそれができないのが子供だし、できないから正常な子供であるといえる。親から指示をされたとき、いつも素直に従う良い子は、実は大変な我慢をしているのかもしれない。

興味深い話がある。

アメリカで育った日本人の女の子が、父親の転勤のため日本で暮らすことになった。彼女は公立の小学校に通いはじめたのだが、やがて元気がなくなっていった。クラスにうまく溶け込めないようなのだ。

そんな時、学校から母親へ呼び出しの連絡があり、駆けつけた母親は、教師のいい分を聞いて驚いてしまった。「お宅の娘さんは反抗的だ」というのだ。信じがたい思いだったが、注意深く聞いていると事情がわかってきた。

アメリカでは、はっきり自己主張を出来る子がいい子の条件だったのに、日本でそれをすると、反抗しているように見られてしまうようなのだ。

いい子の基準は、国によって違うらしい。これを知るだけでも、今の自分の教育が正しいのか分からなくなってしまう。

アメリカ風がいいのか日本風がいいのか、簡単には決められない。しかし自分の意見を言える雰囲気が家庭にないと、子供は毎日が我慢の連続になってしまう。

この例などを見ると日本人は、子供は自己主張をせず、黙って大人に従うものだと考えている可能性がある。封建制度や、家長制度のなごりだろうか。だとすれば、支配的な親になり易いかもしれないのだ。

考えてみればたいていの人が、最初の生活知識を、母親との日常会話から学んでいる。生活知識というのは、雑学的なものにとどまらない。友達とけんかをしてしまったとか、異性の子とどう接すればいいかとか、いろんなことが母子の間の話題になる。

子供にたくさんの発言させてそれを聴き、自分の考えを伝えることが、子供の成長や、親子の相互理解には不可欠だと思う。これが一方的であったり、黙殺的であったりしたら、ロボットにデータの入力をするのとあまり変わりがない。

親のこの態度が続けば、子供はいつしか言葉を失い、親に何も期待しなくなるだろう。これは沈黙的な出来事なので、親はずっと気がつかないが、この時点ですでに親子関係の破綻が始まっている。

幼い子供にとって母親は、いつも一番身近な場所にいる、最大の理解者であり指導者だ。そしてなにより、大好きな存在だ。その母親に自分の気持ちを聞いてもらい、答えてもらうことの繰り返しが、子供を育てていくのだろう。

この作業は今後子供が出会う、あらゆる人間関係作りの基礎にもなるはずだ。なぜなら母親との会話のキャッチボールこそが、子供が人生で最初に体験する、他者とのコミュニケーションだからだ。

最近テレビなどで、母親と中高生くらいの娘が、姉妹のように振舞っているのをよく見る。とてもリラックスした関係に見えた。これは母親の若さ自慢と見るより、子育ての成功例と考えるべきなのだろう。母親の同性としての適切な指導が、娘の信頼を勝ち得たのだ。

では母親と息子の関係はどうだろう。母親はいつも適切な指導を、男の子にも与えられるのだろうか。

小学校に通うようになると、今までとは違う育児が必要になってくる。それは家庭の外との係わり方だ。よその子という他者が現れ、彼らとうまくやっていく方法を教えなければならない。その中で、人間的な成長をさせなければならないのだ。

友情・正義・優しさ・強さ・いたわりなど、身につけて欲しいたくさんの情緒や感情がある。男の子がなにか相談してきたときに、これらのことを念頭に、母親はいつも正しいアドバイスができるのだろうか。ときには何が正解であるのかさえ、誰にもわからない場合があるのだ。

一般的に男の子も女の子も、それぞれ別のグループを作る。その中でのルールは、おそらく違ったものだろう。男の子グループを経験しなかった母親には、彼らのルールに即したアドバイスをすることは、かなり困難なことのように思える。私の経験でも、母親のアドバイスは次第に物足らなく、納得のいかないものになっていった。

男の子と女の子を、いつまでも同じに扱うことには、危険があるように思う。最近は性差を考えない教育方針があるようだが、それは男性からも女性からも、その良さを奪っていると思う。ただ同時に悪さも奪うことがあるので、この考えは支持されるのだろう。

ともあれ、明らかに違うものを均一的に扱うことは、平等とは少し違うのではないだろうか。違うもの同士がお互いに認め合い、違いを尊重し合えることが平等ではないのだろうか。

男は男同士、女は女同士に限る、という単純なことをいっているのではない。子供の性差が明確なってくれば、それを尊重してやる必要があると思うのだ。

また親にも性差があり、それぞれ違う考えや発想をもっていることを示し、親同士も参考にする必要があると思うのだ。男女の平等って、こんな気配りの中にあるのではないだろうか。

男の子は成長していくにつれ、母親に感謝しながらも、その庇護下にあることに窮屈さや、ときには屈辱さえ感じ始めている。母親には分からない、新しく芽生えたセンスに従い始めているのだ。

母親は子供のことを、一人で抱え込まないほうがいいと思う。この前までおしめをしていたのに、気がついたら大人とあまり変わらないトラブルや、悩みを抱えている。父親の考えも聞いてみたいと考えたなら、気軽にそうしてみればどうだろう。

女の子の場合もしかりだ。自分の娘がいつか男性と付き合い、結婚し、子供を生むことを前提とするなら、父親(男性)の考えというものも知っておくべき知識だろう。

ここで誤解してもらっては困るのだが、母親の考えは、少年期の男の子には必要がないというのではない。男の子たちのルールはやはり幼稚な場合が多く、時には暴走的になる。母親はこれらの考えに率直に、大人としての考えをぶつけてやればいいと思う。

ただ子供たちの言い分にも一理あると思い、判断に困ったときに、父親の考えも参考にするようにしてはどうかと提案しているのだ。子供の精神年齢が高くなるにつれ、複雑な問題にぶつかり、いろいろな価値観や、ものの見方が必要になると思う。いくつかの意見を参考にする習慣を持つほうが、いいアドバイスや、いい教育にたどり着けるのではないだろうか。

父・母二人が真剣に向き合ってくれたら、子供は安心感と勇気を持つだろう。

母親は、我が子のことしか目に入らないという、我が子中心主義に陥りやすいようだ。どんなに理性的な女性であっても、我が子のことになると別らしい。これはたぶん本能的な行動なので、自分で気がつくのは困難な事だと思う。

「私は理性的に振舞っていますよ」と、ほとんどの母親が考えているだろう。しかし他のお母さんが、信じられないほど利己()的に振舞っているのを、見聞きしたことがあるはずだ。

程度の差こそあれ、ほとんどの母親にこのようなセンスがあると思う。少なくとも、男性からはそう見える。自分だけは違うと考えないほうが、子供と良い距離感を保てるのではないだろうか。

「父親の役割」の冒頭に、「子供のことは、妻に任せてある」というテレビドラマのせりふを紹介した。このせりふとセットのように頻繁に使われたのが、「うちの子に限って」という母親のせりふだった。これは麗しい母の愛であると考えてもいいのだろうか。

子供のいない私だが、こんな経験をしたことがある。私の職場に、まだ十代の少年が仲間入りした。彼と私の年齢差は、父と私の年齢差とほぼ同じで、自分にもこんな子供がいてもおかしくないのだなぁ、という感慨にとらわれた。

一世代の隔たりがあったが、バイクという共通の趣味も見つかり、私は休憩時間など彼と過ごすことが増えていった。そのうち、大切にしていた釣竿をプレゼントしたり、弁当を差し入れたり、なにかを教えてやることが、私の楽しみになっていった。

どうやら私は、いつの間にか親子ごっこをしていたようだ。

よその子であってもこんな気持ちになってしまうのなら、親が子供に持つ愛情といったら大変なものだと思う。誰もが理性的ではいられない。特別な人のためなら、人はわがままにも傲慢にもなれる。

だが愛するという感情は尊いものではあるが、それは二人だけの場合だ。ここに第三者が加われば、不公平という迷惑を生みかねない。

私自身の記憶をたどれば、愛するという感情は、相手のためになるからという口実を探しながら、実は自分の心地よさを追求しようとする面がある。人はこれに気づいているときと、後になって気づくときと、気がつかないまま終わるときがある。

愛とは我々がイメージしているものより、ずっとエゴイスティックで、厄介なものかもしれない。

では第三者がいる場合、愛は無用なものなのだろうか。いや、そうは思わない。何でも許してやるのも愛だろうが、間違いを指摘してやるのも愛だと思う。

ある出来事を前にして、どんな態度が望ましいのかは、相手のためになるかどうかを、真剣に吟味するべきだろう。愛する側の欲求や心地よさは、後回しにするべきだ。どちらを選択するかで、愛する側の思慮深さや、克己心があらわとなる。

ところでこの深く強い、俯瞰してみれば我が子中心的ともいえる愛情は、どこから発しているのだろうか。こんな説を聞いたことがある。

江戸時代の平均寿命が、何歳だったかをご存知だろうか。なんと20歳ほどだったらしいのだ。思わず「うそ~」といいたくなるが、もちろん理由がある。「人生50年」ほど生きる人もたくさんいたが、それを上回って、5~6才までに死んでしまう子供が多かったのだ。これらの極端な短命をいれて平均をとると、20歳ということになるらしい。

これは現代と違い、つい最近まで赤ん坊というものが、じつに簡単に死んでしまうものであったということだ。母親は何万年もの間、死神が簡単に連れ去っていく赤ん坊を、必死に守り続けてきたのだ。過剰といえるほどの愛を注いでも、まだ足りなかったはずだ。この積み重ねが、本能として残ったのではないだろうか。

この我が子中心主義は、恥ずかしいことではないと思う。いつ死ぬか分からない乳幼児を育てるときは、このセンスが必要なはずだ。これが前章で書いた母親の役割の、「生き延びさせる」と通じているのだろう。

しかし少年期に入って、子供が家族以外の社会と係わるようになると、むしろそれがマイナスに働く事がある。たとえばいじめの被害から子供を守ろうと、「見て見ぬ振りをしていなさい」などというと、子供をがっかりさせてしまう。子供は親を尊敬したいし、正しいことを学びたいのだ。

母親が子供を守ろうとするセンスは、ある時期から男の子にため息をつかせるものとなってしまう。彼らはもはや、自分が守る側に廻りたがっているのだから。

多分この時期に意識すべきことは、父親の役割である「社会化させること」だろう。昔の母親だって、間違いなくやっていたことだ。この時期に母親から受けた言葉を、生涯にわたって大切にしている人は大勢いる。

父親の役割と分けて記されているのは、その内容がはっきりしない父親の役割を分かりやすくするための、コントラストにすぎない。

少子化のため母親は以前のように、いつも下の子に手を取られているという状態ではない。さらに現代では、父と子が顔を合わせることさえ困難になっている。

あとは母親がこれらの状況を理解し、自分も社会化の教育をする必要があるのだと、考えることが必要だと思う。そのためにはこれまでの育児の姿勢を、新しいものにシフトすることが必要だ。子供の成長段階に合わせるのだと考えれば、変わることはそう難しいことではないと思う。

そうしなければ、もはや子供は誰からも、社会化の支援を受けられない時代になっている。

日本人女性は子供に対して、「精神的密着」の傾向があると本で読んだことがある。例えば子供がテストで悪い点を取ったとき、この傾向の強い人は、自分自身がこの成績をとったように悲しくなってしまうらしい。客観的に子供を見ることが出来ないのだ。こんな感覚に心当たりは無いだろうか。

昔見たテレビドラマに、こんなものがあった。ある日本人の母親が、アメリカで母子心中をし、母親だけが生き残ってしまった。やがて彼女は殺人罪で刑務所に入れられるのだが、我が子を殺した鬼畜だと、あらゆる民族の女囚たちから迫害を受けてしまう。

このドラマのテーマは、母子心中を行うのは日本人だけだ、というものだったが、おそらくこれも精神的密着を暗示しているのだと思う。

精神的密着を受けた子供は、幼いうちは同じく密着するだろう。しかし長ずるにつれ、それは負担に変わっていくはずだ。「自分」というものを持ち始めるからだ。

密着傾向の強い母親にとって、子供の親離れというものは、自分の一部が切り取られるような痛みを感じるのかもしれない。男性には分からない感情だ。

これにどう対処すべきか、私には良い考えが浮かばない。この感情に心当たりのある人は、今すぐこの文章を読むことを中止し、本屋で専門書を探すことをお勧めする。

冗談を言っているわけではない。うまく対処しなければ、いつか身を切られるように苦しい、別れの時が間違いなくやってくる。子供は独立した一個人であり、いつか母親を振りきり、旅立ってしまうのだ。さもなければ、親離れが出来ないというハンディキャップを、子供に背負わせることになる。

この精神的密着にうまく折り合いをつけれなかった母親が、マザコンの息子を作っているのだろうか。

ところでマザコンだが、これを皆さんはどう考えているのだろう。私はごく単純に、親離れ・子離れができていない母子関係なのだと思っていた。そしてそれは悪いことだと思っていた。

息子がパートナーと良好な関係を築くことができないのなら、やはり悪いことなのだろう。しかしマザコンに関してよく考えてみると、ある程度は仕方がないと思えるようになった。なぜなら母親が長男にマザコン傾向を持たせることは、日本女性の伝統的なライフスタイルに合っているからだ。

かつての日本では個人の自由よりも、家系の存続や発展が重要視されていた。結婚も当事者二人だけのものではなく、家系(家庭)の中に新しく娘を迎え入れることだった。

家長は舅であり、ナンバー2は成人した長男である。ほかに家族がいなかった場合、次の順位は姑であり、嫁は最下位だ。封建時代には、何にでも上下や順位があったのだ。

姑が長男を密着的に育てていれば、彼女の実質的な順位は第2位になる。長男が嫁に骨抜きにされてしまえば、逆に最下位となってしまう。長男に密着しマザコン傾向を持たせることが、姑の家庭内での立場を大きく左右するのだ。

現代でもこの文化と無関係ではいられない。まだ多くの人が、長男は親と同居することが望ましいと考えているのではないだろうか。

封建主義という考え方を差し引いても、人は何人かでグループを作れば、必ず発言力や影響力の大きさで順位を作ってしまう。嫁という新参者が現れることを前提とするなら、その対抗策を講じるのは自然なことのように思う。夫婦を最小の単位と考えず、子供が成人してからも、家族を最小の単位だと考えているからだろう。

 さらに伝統的なライフスタイルばかりでなく、最新のライフスタイルにも都合がいいのだ。

すこし前までの母親は、次々と生まれてくる子供の世話に明け暮れ、朝から晩まで忙しく働いていた。しかし少子化の現代では、一人の子供を小学校にあげてしまえば、育児の重労働から大きく解放される。そしてたくさんの家事労働が自動化され、自分の時間を持てるようにもなった。

その時間を余暇として費やす彼女たちは、はた目には気楽な身分に見えるかもしれない。しかし母親たちの本音はどうなのだろうか。

気がつけば夫も子供も忙しそうで、ろくに会話をすることもない。それで困っている様子もない。とくに子供はあんなに世話を焼かせていたくせに、いつの間にか自分で大きくなったかのように振舞い始める。

家族がもう自分を、心から必要であると感じなくなっているのだ。実際はそうではないのだが、今まで忙しかった人が急に時間をもてあますようになると、そう感じてしまうのではないだろうか。

そんなとき子供が、自分なしでは困るようでいてくれたなら、母親の時間は充実と満足で埋めることができる。

ちなみに老人の痴呆も、社会や家庭内での役割を失うことと、無関係でない場合が多いらしい。家族から必要とされないことや、そう思い込んでしまうことは、人を本当にネガティブにしてしまうようだ。社会性動物である人間は、いつも誰かと強く結びついていたいのだろう。

いずれにしろ長男のマザコン傾向には、日本の母親にとっていくつか有利な点があるようなのだ。

少子化社会の現在、多くの男性が一人っ子であり、たくさんの女性がこの問題にぶつかるのだろう。マザコンは若い女性たちから非難され、やがてはその女性たちによって作られている。

 

考えてみれば現代の母親は、気の毒な立場にあるのではないだろうか。子供が少なく、便利な家電製品に囲まれているから、育児が楽に見えて誰も(本人も)それに気が付かない。

プライバシーや個人主義の確立にともない、地域社会からの子育てのサポートが期待できなくなった。

人によっては、親身に支援してくれる実母からも、義母からも遠く暮らしている。

育児というものを見たこともないのに、いきなり本番を迎えている人も多いはずだ。

また戦後の家庭教育は親の自由であり、そのぶんなにが正しいのか分からない。最近の人権論や新しい教育論は、それまでの常識を否定するものがたくさんある。

また最もサポートを期待していた夫が、「子供のことはおまえに任せてある」などと、無責任なことを言い出しかねない。そんな約束をした覚えも無いのに。

このように孤立的で、正しささえ曖昧な状況の中にいて、ほんらい乳幼児に向けるような母性を、まもなく大人になろうとする、少年期の子供にも注いではいないだろうか。

ちょっと他の家を覗いてみれば、「なんだそうすれば良かったのか」と思えるようなことで、悩んだりしているのではないだろうか。

プライバシーを獲得した家庭には、孤立と、独善というワナが潜んでいる。母子二人きりの状態に、自分を追い詰めてはいけない。

この状態を改善するには、父親を、家庭教育の場に引っ張り出すことが必要だろう。父親のほうが正しいというのではない。何が正しいのか分かり難い現代の子育てに、違う視点からの意見が聞けるからだ。

もう少し説得力のある言葉を使うなら、子供には「父性」と「母性」の両方が必要だということだ。

意見が合わなかったとき、話し合うことで、よりよい第三の判断を得る可能性もある。夫婦の対立を収めるという理由から、「では、○○さんに相談してみよう」と考えれば、三人目の大人の考えを得ることができる。両親ともに、自分がいつも正しいとは限らないという、シビアな理性が必要だ。

必要なのは、自分の思い込みや、都合ばかりに合わせようとする、独善を防ぐという感覚だ。かつてはこの三番目の大人の役割を、舅・姑が受け持っていたのだろう。彼らをもっと活用することも必要だと思う。近くに彼らがいるのに活用しなければ、それがすでに独善的ということではないだろうか。

父親を教育の場に引き出すことは、早いうちにやっておいたほうがいい。時間が経つにつれて、父親は子供との接し方が分からなくなり、それが理由にさらに逃げ腰になる。

前章にも触れているが、日本の父親は子育てを、母親に「丸投げ」にしていた時代があったのだ。次の世代の父親は、子供との接し方を知らないし、その必要性さえ考えていないかもしれない。

さらに世の中には男と女がいて、かなり違う考えを持っているということを示すのは、子供の将来のために必要な知識だと思う。ここで夫婦が会話を道具として、協調的に振舞えるなら、子供は異性とも協調的に付き合えることを知るだろう。

夫婦がそろって子供に向き合えば、きっと子供も、将来それを自然に実践するだろう。これはおそらくかなり大切な教育だ。

「子供は夫婦で育てるものだ」

この考えが間違っていなければ、母親がまず教育しなければならないのは、困ったことにむしろ父親なのかもしれない。

追記…

もしかしたら父親と母親は、絶望的に分かり合えないほどの隔たりをもって、子供を見ているのではないだろうか。

しかしそれに気づくことは困難だ。人は誰でも、他人の目を通した世界を見ることができないからだ。だからおそらく他の人も、自分と同じような世界観を持っていると錯覚する。

母親は文字どおり、血肉を分けて子供をこの世に送り出している。一年近くもの間へその緒でつながり、体の中で子供を育ててきたのだ。子供に一体感や、分身という意識を持つのも当然かもしれない。また出産という、非常に大きな痛みを伴う経験を経て、自分が親になったことを確信している。

父親と子供は、ある日出会っただけの関係だ。助産婦さんに、「あなたのお子さんですよ」といわれ、たぶんそうなんだろうなと思うしかない。血のつながりを理屈や理性で認識しているから、一体感までは持ちえない。

この考え方を女性はとても嫌がるだろうが、父親にはこの段階では、本当に自分の子供であるかどうかも曖昧なのだ。

この違いは父親も母親も、お互いにうかがい知ることができない。おそらく自分と同じような子供に対する愛情を、相手も持っているだろうと期待している。そしてその違いが表面化したとき、お互い相手の非常識さにあきれ、立腹する。

「どうしてそんなに視野が狭く、自分の子供中心にしか考えられないのだろう」

「どうしてそんなによその子をかばい、自分の子供を本気で愛せないのだろう」

出発点の違う父親と母親では、子供の見方も異なり、子供への愛情が質的に違うのではないだろうか。質的に違うということは、愛し方も違うということではないだろうか。それぞれの愛が、別のものを子供の中に育んでいくのだと思う。

「母親の役割は、子供を生き延びさせることである」

「父親の役割は、生き延びた子供を、社会化させることである」

この説はやはり、かなり正しいように思える。

子供と一体感を持っている母親にとって、おそらく子供は“Only one”なのだろう。いつでも子供の味方であり、社会を子供に合わせようとする。

一体感を持たない父親は、子供と距離を持っている。“One of them”の視点で子供を見ている。子供と距離をおき、子供を社会に合わせようとする。

では母親は、少年期を迎える頃から必要がなくなるのだろうか。いや、そんな事はない。母だからできる、女性だからできる社会化の教育というものがあるはずだ。そうでなけば男性の価値観ばかりが横行する、偏った世の中になってしまう。

考えるべきは、子供には成長の段階があり、接し方や愛し方にも、社会化を意識した変化が必要だろうということだ。

そして前述したように、母と子の会話こそが、すべての基礎になっている。母親という、究極的な味方がいるという安心感は、子供にとって必要なもののはずだ。大人になってさえ母親の愛情を感じるときに、くすぐったいような安心感や、真摯な感謝を人は覚える。

いつでも両手を広げて迎えてくれる母親の胸は、すべての人の故郷である。

End

3 少子化対策

現代の日本は、空前の少子化社会である。これは単純に、子供の数が少なくなっただけの出来事なのだろうか。なぜなら子供は親ばかりでなく、兄弟からの影響も受けて成長するからだ。

心理学者に言わせると、兄弟の関係は「競争」と「対立」なのだそうだ。愛に満ちた親子関係と違い、非常に厳しい関係のようだ。

また子供が少なくなる事は、親にも変化が現れないだろうか。大切に育てたい、よりよく育てたいという気持ちが大きくなるはずだ。これは悪いことではないのだろうが、何人かの子供に分散せず、一人の子供に集中する事に危険はないのだろうか。

 少子化が始まってから、わずか450年。やっと3世代目にはいったところだが、いくつかの問題が出始めているように思う。

子供にとっての少子化

 実は私はひとりっ子で、兄弟がいるという状態がよく分からない。そんな私は若い頃に、ひとりっ子は精神的に何かが欠けているのではないかと、自分を疑った経験がある。

それは恥ずかしい話なのだが、マージャンでひどく負けてしまったときだった。あまりの悔しさに激しくうろたえ、冷静さを保つことができなくなってしまったのだ。友人にそれを悟られるのが嫌で、逃げるようにその場を離れた。そしてこんな事を考えていた。

友人たちは家庭内で、幼い頃から兄弟を相手に、トランプ遊びなどをしていたのだろう。勝ったり負けたりを、何度も経験しているはずだ。

しかしひとりっ子の私には、この経験がほとんどない。何度も一人二役でトランプをしてみたのだが、それではババ抜きは成立しないことを学んだくらいだ。

負けたときへの対応なども、たぶん慣れや訓練が必要なはずだ。この弱さは、ゲームなどとは違う場面でも、私をさいなむ事になるのだろう。

アメリカの心理学者、スタンレイ・ホールはこう表現している。

「ひとりっ子は、すでにそれだけでひとつの病気である」

 もちろんこれはデフォルメした表現で、ひとりっ子がその事で病的であるわけではない。ただ兄弟からの影響も、非常に重要であるということだ。

 兄弟がいるということは、どういうことだろう。子供の頃は、兄弟がいることにあこがれていた。テレビに飽きたときゲームをする相手がいたら、どんなに楽しいだろう。
 そう思って兄がいる友人に訊いてみると、とんでもないといわれた。「あいつ、いつか絶対殺してやる」そう答えた友人の目は、決して冗談を言っているようには見えなかった。
 
次に弟を持っている友人にも訊いてみた。すると「弟なんて、プロレスの技をかける人形や」という返事だった。これを聞いた私は、兄がいないことを神に感謝した。

 しかしこの人間関係が、競争と対立そのものなのだろう。弟は、なんど負かされてもめげない精神をやしなっているし、追われる立場の兄は、追い越されまいと自分を高め成長させている。家庭の中に、逃れようのないライバルがずっといるのだ。どちらにとっても、大変なことである。

それに比べて、ひとりっ子の家庭生活は気楽なものだった。家庭の中は、整然とした大人の理論に支配されていたし、対立的な人間関係とも、幼稚な暴力とも無縁だった。大人に対してハイハイと従っていれば、ほとんど波風の立たない毎日だった。

この安穏さが、私の中でなにかを育てそこない、子供っぽい弱さを残したのだろう。家庭内にある兄弟の対立は、親にとっても面倒くさいことなのだろうが、子供はこんなことからさえも学び、将来の糧にしてしまうようなのだ。

それに対立には、別の大切な要素があると思う。それを修復し、和解するトレーニングもセットになっているのだ。

もちろん兄弟というのは、兄と弟ばかりではない。かつては何人もの兄弟・姉妹がお互いに影響しあい、子供の心にいろいろなものを育てていたのだ。負けた子をかばってやるいたわりや、喧嘩の仲裁、談合して親と交渉したり、親にはいいにくいことを相談したり、大勢の子供が家庭内で触れ合いをもっていた。

わずか450年前まで、家庭にはたくさんの子供が生活し、子供同士の刺激に満ちていたのだ。

 現代では、それらの事を喪失している。親はこのことを意識しているのだろうか。おそらく考えた事もないだろう。我々の世代では、子供が少ないことが当たり前になっているからだ。

兄弟との競争や対立に替わる、唯一の手段が、友達との競争や対立だろう。本来は兄弟との関係を通して、友達との関係を良好に保つわけだが、順序が逆になることは仕方あるまい。将来の人間関係のために、いま誰かと競争や対立をし、修復することが、重要なトレーニングになるはずだ。

友達同士の対立というものは、いっしょに遊んでいるうちに、しばしば経験するものだ。親の耳に入るような対立はそんなに多くはないだろうが、ちょっと気まずくなるというような経験は、おそらく日常的なことだろう。

対立があったとき、和解し関係を修復する事は、子供の将来において欠かせない技術であるはずだ。あくまで自己主張を通すか、妥協点を模索するか、寛大に相手に譲ってやるかなど、どれもが人に必要なことのように思う。たぶん精神的な成長をするにつれて、より高度で洗練された解決法を手に入れていくのだろう。夫婦喧嘩を収めることでさえ、この延長線上にあるのではないだろうか。
 しかしこれらの知識や知恵は、いくら精神的な成長を遂げようと、実際に対立してみなければ手に入らない。

だから親の耳に入るような大きな対立でも、子供たちによる解決に期待するべきだろう。親は子供の喧嘩に、無思慮に立ち入るべきではないと思う。けんかの本当の原因は、当事者どうしでないとなかなか分からないものだ。

なにより子供たち自身が、子供同士の喧嘩は、自分たちで解決するべきだと考えているのではないだろうか。その証拠になるか分からないが、いじめがなかなか親に相談できず深刻化するのは、親に相談する(チクる)ことは卑怯なことだと、彼らが考えているように思うのだ。

わたし自身の記憶でも、子供同士のトラブルはほとんど親に相談しなかった。チクるという言葉が定着する前は、これを「告げ口」といっていた。

最近はどうなっているのか分からないが、私が子供だった頃、「子供のけんかに親が出る」というのは、最も軽蔑される行為だったように思う。大昔から私の世代くらいまでは、この感覚が常識だったのだ。

今でもこの感覚が残っているなら、下手に親が子供のけんかに介入すると、子供のメンツやプライドを潰すことにもなる。

もし子供の喧嘩に口出しする親が増えているとすれば、たぶん少子化の影響だろう。たくさん兄弟がいて、兄弟げんかが日常的なものであれば、子供がよその子と喧嘩をしても、家庭内と同じことをやっているのだと思う事ができる。

しかしその経験が少ないと、子供の喧嘩にハラハラせずにはいられない。毎日のように兄弟げんかを見ていた時代の親にとって、子供の喧嘩は、「たかが子供の喧嘩」だったのだと思う。

ただ親は子供のトラブルを耳にしたとき、どんな性質のもので、どう推移し、どう決着がついたのかは、積極的に知るべきだと思う。場合によっては、有効なアドバイスをしてやることができるかもしれない。

これは子供にとって、生涯を通した大切な財産になる。家庭内を舞台にしている兄弟げんかの場合、親はしばしばこれを行っていたはずだ。

そしてこの対立やトラブルが、いじめであるかの確認は必要なことだ。もしいじめであったなら、親は大きな声でそれを糾弾すべきだろう。この場合、これが親の役目だ。


 たいていの親は、子供がよその子との喧嘩や、対立に巻き込まれる事を好まない。しかし一生を通じて、他者との対立から無縁な人生などありえない。ならば子供のうちにこそ経験し、どう対処するべきかを、学んでおかなければならないのだ。
 友達との対立を、兄弟との対立の代わりにして、子供の成長の糧にしようと考えるなら、兄弟げんかと同じように、親は双方に対して公平であることが、何より大切だろう。たぶんこれが困難なことだから、子供の喧嘩に親が出ることを、昔から人は戒めていたのだと思う。
 
子供を信じ、子供の自主的な行動に期待するべきではないだろうか。子供たちには偉大な治癒力がある。取っ組み合いのけんかをしても、翌日には肩を組んで歩けるのが子供時代だ。

対立や競争と向き合うことは、大きなストレスを抱え込むことになる。しかし背を向けて逃げまわってばかりいると、大きな後悔を残すことにもなる。

自分の主張が正しいと考えるなら、逃げずに発言することは、非常に大切なことだろう。自分より強い相手に異を唱えることには、とても勇気がいるだろう。戦い続けることには、大変なエネルギーが必要となるだろう。

そして最終的に、自分に非があったと気づいたとき、それを認め謝罪することは、さらに勇気を必要とし、大きな苦痛があるだろう。対立や競争と関わったとき、人はいくつものことを試される。

しかしきちんと対立し、きちんと和解したからこそ手に入る、信頼関係に裏打ちされた人間関係もあるはずだ。大人だって喧嘩をした相手と、肩を組んで笑いあうことができるのだ。

どうも対立や競争との関わり方には、人にとって大切な要素がたくさんあるようだ。それらとどのように関わるかは、その人の「強さ」や「誠意」を表すように思える。精神性といってもいいかもしれない。

将来自分の大切な人を守れるかも、ずっと仲良くやっていけるかも、これときちんと対峙できるかどうかに掛かっている。

子供時代の経験は大切なものだ。ひとは大人になってからも、子供時代に培った経験に大きく左右されている。しかし人にとって、子供時代というのは非常に短い。人が自分のことを子供であると考えているのは、せいぜい20歳までだろう。

残りのすべての人生は、親と過ごす時間より、同世代の人たちと過ごす時間がずっと多くなる。こう考えたら子供は親のものではなく、同世代の人達のものだ、という事に気がつくはずだ。

勇気と誠意をあわせ持ち、同世代の人達ときちんと付き合っていけるかどうかが、その人の人生の明暗を分ける。

親にとっての少子化

 たいていの親は子供が生まれたとき、こんな人になって欲しいという希望を持つだろう。そして何年経ったとしても、こう有って欲しいと願う理想像が有るはずだ。それはたいてい、何か秀でたものがあるということだろう。勉強が出来たり、スポーツが出来たり、リーダーシップを発揮したり。

その通りに育っていれば問題は無い。しかしひどく違っていると、がっかりしてしまうのではないだろうか。親にがっかりされる子供は、悲惨だと思う。子供はみな一様に、親から愛され、認められたがっているのだから。

昔のように、子供が56人もいたらどうだろう。おそらく親は、その多様性にびっくりするに違いない。下世話な言い方だが、おなじ畑におなじ種をまいたはずなのに、採れた果実は全部違うのだ。

子供がたくさんいると、子供の個性というものがくっきりと明確になり、それらを容認できるようになる。なにしろみんな可愛い我が子なのだ。

子供が少ないと比較ができず、個性が見えにくい。一人の子供をみて、子供とは皆こんなものだと考えてしまう。そして自分があらかじめ描いていた理想像に、子供を当てはめようとしてしまう。あるがままの個性を受け入れないと、子供はやりきれない。

しかし多くの親が自分の望みを子供に託し、それは少ない子供に集中する。その要求は時にばかげて見えるほど、自分勝手な場合がある。

○○大学でなくてはならない、医者や弁護士でなくてはならない、プロのスポーツ選手や音楽家になって欲しいなど、本気で要求している親は少なくない。

子供に夢や希望を託すのは親の本能で、コントロール不能なものなのかもしれない。そしてそれは必要なことだと思う。こんな人間になって欲しいという願望が、家庭教育の原動力になっているのだろう。

しかし過剰な期待は、やがて子供の重荷に変わっていくはずだ。親にできたことだからといって、必ずしも子供にできるわけでもないし、親が憧れている仕事でも、子供がそう感じるかは分からない。親子は、別人なのだ。

それでも幼い子供は、重荷を受け入れようとする。よその家庭でも、同じようなことが行われていると思っているからだ。自分の親だけが、無茶を言っているとは思っていない。子供は親を信頼しているし、愛されたいのだ。

それを見て親は、子供が喜んで受け入れていると錯覚してしまう。

しかし子供が成長して、常識的な判断ができるようになると、自分に突きつけられていた要求が、無理難題であったことに気がつくことになる。そうなると親の常識や、理性や、言葉を、信じることができなくなる。

またそれが実現できなかったときの、子供の心を想像するべきだろう。親の期待に応えられなかった子供は、挫折感を胸に人生をスタートすることになる。

この挫折感は、無理難題だと気がついてからも、親の期待に応えようと努力してきた、いわゆるいい子ほど大きいはずだ。またそれが大きいほど、実現できなかったときに、親への非難に転化していく。

それは場合によっては暴力にさえなりうる。あなたはここで、かつて新聞などに掲載された、いくつかの悲惨な事件を思い出す事が出来るだろう。

子供は親の従属物ではない。しかし親が管理し、ある願いを込めて教育していかなければならない。このバランス感覚は、非常に重要だと思う。親が子供の将来にどこまで介入できるかを考えることは、個人主義というものを考えることかもしれない。

西洋人にとって、子供は将来よその人(横並び)になる存在だが、日本人にとっては、いつまでもその家の子供(縦の関係)であり、家を引き継ぐものである。次男三男であっても、分家という立場で本家につき従う一族である。

こんな家制度のなごりなのだろうか、現代の何人かの親は、子供の未来を自分で決定したがっているように思う。そして妙に、「成功」を望んでいるように思う。
 現代の日本の親が、子供の成功を強く望むようになった一番の理由は、自由競争社会の到来だろう。昔は身分や階級から飛び出すことは、容易ではなかった。
 しかし現代では努力しだいで、可能性だけでいうなら、世界一の富豪になることも夢ではなくなったのだ。がんばれと言いたい気持ちは良く分かる。
 しかし自由競争というと、文字通り自由で、可能性にあふれていると思ってしまうが、そこばかりを見ていいものだろうか。ある程度のところに満足をおかないと、死ぬまで競争は終わらない。
 こんな人生を愛する人も多いだろうが、のんびりとしたスローライフに憧れる人も、決して少数ではあるまい。どこに価値や、喜びを見出すかだ。
 また競争である以上、勝ち負けが発生する。子供に何か大きな期待するとき、上手くいかなかったときの心のケアが、非常に大切なことではないだろうか。
 
いずれにしても、子供の個性や、希望を無視するべきではないと思う。小さい子供は社会も、未来も、自分の事もよく分かっていない。無知な子供にバラ色の夢ばかりを見せて、非常識な高みへ追い立てるのは、悪徳商法とあまり変わらない。そこに存在するリスクにも、きちんと目を向ける必要があると思う。

 

 ひとりっ子だと子供の成長を、相対的に実感しにくい、という事もあるのではないだろうか。

例えば弟がいれば、相対的に兄はしっかりしているように見える。弟の魚を食べやすいようにほぐしてやりながら、上の子には、「お兄ちゃんは自分でやりなさい」と指示が出せる。下の子に手を取られるという現実から、上の子の親離れを、無意識のうちにうながす事ができる。

しかしひとりっ子だと、それを感じにくい。成長を比べるものがないので、接し方に段階や、変化をつけにくいように思うのだ。これではいつまでも、幼児のままの接し方をつづける可能性がある。実際の成長よりも幼いものとして、子供を扱っている家庭は、案外多いのかもしれない。

子供は親の、この態度を受け入れるだろう。やはりよその家庭と比べることができないので、どこの親子もこうなのだろうと考えてしまうのだ。子供に親子関係の決定権はない。親のやる事はいつも正しいと、受け入れるしかないのだ。

親子関係が良好だった場合、子供にとってこの親子関係は、居心地のいいものだろう。なんでもかんでも親がやってくれることは、なにしろ楽だ。しかし結果として何もできない、やったことが無い大人になってしまう。
 「母心アラカルト」で、母親は子育ての姿勢をシフトする必要があると書いたが、下の子が産まれるということが、その自然なきっかけになっているように思う。

兄弟がいれば、兄弟げんかは避けられないものだろう。そうであれば昔の親は、現代の親より厳しかったのではないだろうか。

親は兄弟げんかのたびに、仲裁に入る必要がある。そのたびに双方から事情を聞きだし、(年齢なども加味した)公平なジャッジを下す必要がある。どちらも可愛いわが子だが、どちらかを(時には両者を)厳しくたしなめる必要があるのだ。

この経験は、天使のように見える我が子であっても、時々ずるかったり、悪かったりするものだという解釈につながる。一人っ子は兄弟げんかをしないので、家庭内ではいつもいい子に見えてしまう。

現代の何人かの親は、我が子には絶対に非がないという考えから、脱することができないようだ。我が子同士の対立を前に、初めて我が子の正・非を突きつけられる。

それは親が我が子を、文字通り“One of them”として見る訓練にもなる。よその子とは平等に扱えなくとも、兄弟は平等に扱おうと考えるはずだ。子供を一人しか持たない我々には、子供はいつまでも“only one”である。

 兄弟がたくさんいることの良さを、再認識する話を聞いた。子沢山で有名なタレントのつるの剛志さんが、ラジオのインタビューでこんなことを言っていた。

「子供が多いと大変でしょうって、しょっちゅう言われるんですよ。でも実際は、子供が増えるたびに楽になりましたよ。上の子が手伝ってくれるようになりましたから」

これだけのことだが、この言葉にはたくさんの要素が含まれていると思う。

上の子はかつて自分も赤ん坊であり、親の手をたくさん煩わせていたのだという事実を、目の当たりにすることができる。これは親への感謝や、親との結びつきの強化になると思う。
 さらに育児というものを、産まれた日から、ずっと観察し続けることができる。育児を手伝うことで、本物の赤ん坊を相手に子育ての練習もできる。

また手伝うのは、赤ん坊の世話だけではあるまい。親が赤ん坊に手を取られているとき、家事の手伝いもする羽目になっただろう。これはハウスキーピングの訓練になるばかりでなく、自分の成長を親に示すことにもなる。

今まで守ってやるだけだった上の子供を、家事労働の援助者として頼りにし始めると、親は子供の成長を実感でき、接し方にも変化が現れるのではないだろうか。

 このことで割を食うのは、ひとりっ子と末っ子だ。彼らは最後まで、家族の中で守られ、世話をされる役を背負わなければならない。

これは子供のうちは快適なことだが、大人になってから苦労するのは目に見えている。実際にひとりっ子や末っ子を揶揄した言葉があるし、学問的にも彼らに弱さのような、欠点になりうる特徴があることは認められている(それらは見方を変えれば、彼らの美徳や長所になっているのだが)。

このことの延長線上にあるのだろう、ひとりっ子はわがままにも育ちやすいようだ。ひとりっ子の一員として認めたくないのだが、証拠らしき話がある。

現在中国では、ひとりっ子政策が実施されていて、すべての家庭が一人の子供しか持つことができない。究極の少子化社会である。

よく考えると不自然なことなのだが、すべての子供がひとりっ子なのだ(不自然と書いたが、一人っ子が当たり前の現代では、その感覚さえないのかもしれない)。

当然中国の人々は、一人っ子を大切に育ててきた。しかしその結果わがままな若者たちが多くなり、深刻な社会問題になっているというのだ。それらのひとりっ子政策後のわがままな若者を指して、「家庭の中の皇帝」というような言い回しがあるそうだ。

わがままの程度を測る事や、それを兄弟の人数と関連付けるのは難しい作業だろう。短絡思考は危険かもしれない。しかし多くの人がそう判断してしまう以上、無関係とも思えない。

家庭の中で皇帝のように育てられた若者は、そこから出て行くときどのような苦労が待っているのだろうか。

少子化というものは思いのほか根の深い、たくさんの問題をはらんでいるように思う。本来多産であった人間には、親にも子供にも、非常に不自然な状態なのだ。究極の少子化国といえる中国で、少子化が原因と思える問題が生じていることを、もっと深刻に考えるべきではないだろうか。

わがままな子供は人に迷惑をかけ、問題として目に付きやすい。しかしその陰に、競争と対立に耐えられない精神的に弱い子供や、親からの過剰な期待に押しつぶされた子供なども、たくさんいるのかもしれない。

こんな言い方は中国の人に失礼かもしれないが、いま中国では大実験をやっているようなものだ。人工的で瞬間に近い少子化への移行だから、その他の社会の変化というファクターを、極力小さく考えることができる。子供がひとりっ子ばかりになると、どんな変化が現れるのかが、ビフォー・アフターと線をひいて分かりやすく観察できる。(実際は経済の急激な成長というビッグファクターがあるのだが、日本ではそれも加味して参考に出来る)

そして少子化が本当に、子供の健やかな成長に悪影響を(親の心にも)及ぼすことがあると確認されたなら、その対策が必要だろう。少子化は我々の問題でもある。子供たちがどんなふうに育つかは、その国の将来をも左右する問題だ。

子供が悪い方向に育ったなら、そう育てるようになったのは親なのだ。

「少子化対策」という言葉がある。これは人口が減少しないように、子供を増やそうというアクションだが、こればかりでは大切なものが抜けているように思う。もはや少子化は大前提なのだ。

多産を前提にしている伝統的な子育てにはない、少子化社会専用の、子育てルールが必要になっているように思う。これこそいま必要な、「少子化対策」ではないだろうか。

追記…

父親も母親も子供を授かったとき、「全力でこの子を守ろう」と、心に決意をしたのではないだろうか。それは大切なことだろう。究極的に子供を守ってやれるのは、親しかいないのだ。そしてこの決意こそ、乳幼児を生き延びさせる原動力になるはずだ。

しかし少年期を迎えた子供には、さらに高度な考えが必要になるのではないだろうか。自分の子供に尊い尊厳や、人格や、プライドがあるのなら、よその子にもそれは同じだけ備わっているのだ。彼らとの平等性を考慮し、子供にもその重要性を伝えることが、子供の社会化には必要だと思うのだ。

これは子供を守るという考えとも、まったく矛盾していないと思う。社会の中で「我が子は特別」とか、子供が「自分は特別」という考えを持てば、周囲との軋轢を生じてしまうはずだ。特別なのは親にとってだけであり、よその人や社会から見れば、たくさんの中の一人に過ぎないのだ。

幼稚園の学芸会で「うちの子を主役にして欲しい」とか、スポーツサークルで「うちの子をレギュラーにして欲しい」などと教員に求める親がいるそうだが、もしそれが周囲に知れてしまえば、子供は彼らの社会からつまはじきにされてしまうだろう。

たいていの親が、このような「我欲」を自制していると思う。ならば子供の喧嘩にも、同じような自制が必要だと思うのだ。

子供がよその子と喧嘩をしたとき、外敵からの攻撃から守ろうと考えるのではなく、兄弟げんかと同様に、子供にはこれが付き物なのだと、(困難だろうが)リラックスして受け止める、大人の余裕が必要ではないだろうか。よその子の言い分が聞けない状態では、平等性は保てない。

守ってやろうという使命に燃えた親が絡むと、対立は決定的なものになり、子供同士での修復ができなくなる。子供同士に任せておけば、必ずとはいえないが、彼らなりの修復の可能性があるのだ。そしてこの体験こそ子供の経験値を上げ、子供を大人にしていくのだ。

「子供を全力で守る」という最初の決意にとらわれ、子供の成長に合わせたステップアップを、我々は忘れていないだろうか。たぶんその最大の理由は、少子化による"only one"の視線だろう。

End

4 宗教を失ったこと

子供や家庭のことを考えているこの文章に、宗教のことが出てくるのは不思議に思うかもしれない。私自身、宗教と家庭教育を結び付けて考えるようになったのはごく最近のことだ。

私は30代になるまで、宗教に対しては否定的であった。非科学的で古臭いものに思われたのだ。特にオオムの事件以来、狂信的なものという意識も加わり、無関心であろうとしていた。

しかしある出来事から、宗教に対す偏見が少なくなり、そうなるとよい部分が見えてきた。そしてそれらは家庭教育にも、強い影響を与えていたのではないかと考えるようになった。

また世界の中で、日本人だけが宗教を軽んじているという事を知ったとき、この想いが強くなった。自分たちの常識が、必ずしも世界の常識であるとは限らない。我々は科学や経済ばかりを重んじることで、自分たちの家庭教育を困難なものにしてはいないだろうか。

もちろん宗教を全面的に肯定しているわけではないし、特定の宗教の勧誘をするつもりもない。ただかつての日本や、現在でも多くの国が持っている宗教による良い効果を、いま一度考えてみて欲しいのだ。

注:この文章でいう宗教とは、なにかひとつのものを指してはいません。日本はかつて、いくつかの宗教と思想が並列的に存在し、どれもが人々に影響を与えてきました。ここではそれらの宗教や思想をひっくるめて、宗教という言葉を使っています。

宗教を見直すきっかけとなったのは、叔母の死だった。叔母はある新興宗教に早くから入信し、当然その息子である従兄弟も、信者になっているものだと思っていた。たいていの宗教は、まず家族から勧誘するものだ。

しかし葬儀の場で会った彼は、信者になっていなかった。オオムの事件があってから間もない頃だったので、「やはり君も宗教には、いい印象を持っていないのか」と尋ねてみた。イエスと帰ってくるはずの、あまり意味のない質問だったが、彼の答えはノーだった。

実は彼の父親は若い頃から大病を患っており、完治する見込みも少なく、いつ様態が急変してもおかしくない状態が長く続いていた。二人の子供を抱えた叔母は、将来に対して悲観的にならざるを得ない状況だった。

そんな叔母に希望を与え、励ましつづけてくれたのが宗教だったと彼は答えたのだ。「今の僕には必要はないけど、母親には必要やったと思う。感謝してんねん」と、彼は最後にそういった。

なるほどと思った。

大昔から人類は、死への恐怖におびえつづけ、現代においても克服できてはいない。若い人ほど死に対する恐怖感は少ないだろうが、中年になり、自分が老いへと向かいつつあると実感する頃から、その恐怖はリアルなものになる(これはなってみないと分からない)。

また家族が出来たりすると、別の死への恐怖が生まれる。配偶者や子供の死を考えることは、自分の死よりも恐ろしい事かもしれない。そして実際に愛する者の死に直面してしまったとき、人は神や仏にすがり、天国や来世を信じようとしてきたのだ。

つい最近まで人は、特に赤ん坊は簡単に死んでいた。身近で次々に旅立っていく彼らに、せめて安息の地への旅立ちであることをと、誰もが祈らずにはいられなかったはずだ。

未来は不安定に揺れ動いている。人類はおそらく、地球上で唯一未来をイメージでき、その不安にさいなまれる生き物だ。そう考えると宗教は、人の心の安定に不可欠な存在なのかもしれない。

さてそんな有意義なはずの宗教だが、やはり我々には受け入れがたい部分がある。現代の科学と矛盾するところや、理解しがたい戒律などだ。

キリスト教が天動説を否定したのはごく最近の事である。たしかアポロ11号が月面を征服するのより、ずっと後だったのではなかったか(アメリカ人はコペルニクスを否定したままで、月旅行を成功させたのだ)。

また多くの宗教がそれぞれの理由をつけて、食べてはいけないものを指定している。科学的に考えるならナンセンスな事だろう。ある宗教では牛は神の使いだが、別の宗教を持ついくつかの国は牛が主食といってもいい。牛を食べている人種に罰があたったという話は、聞いた事が無い。

しかしこれらの疑問点を補う良いところが、それぞれの宗教の戒律にはある。

ひとつはその宗教を持つ社会を、強化し存続させようとする力だ。

例えが悪すぎるかもしれないが、宗教をある社会に寄生するものだと考えてみよう。宗教にとって寄生した社会が消滅する事は、自らの消滅を意味する。だから宗教は取り着いた社会が、少しでも長く存続するように作用する必要がある。

私は宗教について詳しくないので、多くの例を出せないが、「汝の隣人を愛せよ」に代表されるような、社会の中の対立を回避する作用がほとんどの宗教にあるはずだ。

住民すべてが同一の宗教を受け入れる世界では、同じような価値観のもとで、反社会的な行為が抑制され、結束が強化される。自己中心的な振る舞いを抑制し、共存共栄を奨励している。

これらは社会規範として機能しているように思う。法律のような拘束力がなくても、意外なほど強い力で人々を律していたのではないだろうか。

我々はこの拘束力のないルールを参照し、「これは人として正しいのか」などと考えたりする。もし神を信じているなら、「神の前で恥ずかしくないのか」と自分の行為を省みるだろう。

もうひとつは、精神的な高みへの導きである。

戒律には人が進むべき道や、方向が記されている。これに従う事は、時に「自己犠牲」などの苦痛を伴う事も必要になる。「弱者救済」などの、損得だけを考えたら無駄と思える行為もある。

しかしこの苦痛や無駄の中に、人間らしさが潜んでいる。人間らしい成熟をとげた者の、良き精神のありかたと言えるかもしれない。

自由で縛りのない生活は気楽である。しかし勉強でも、仕事でも、スポーツでも、進歩や向上をしている人は、なにかの縛りを自分に課してはいないだろうか。宗教の戒律は人に縛りを与えるけれども、人の進歩や向上のための示唆を、たくさん含んでいるのではないかと思う。

現代の日本には、宗教的な戒律が全くない。あるのは法律と、親からの教えと、それらをもとに自分が生きてきた中で手に入れた、自分専用の戒律である。

この自分専用の戒律は、おそらく誰もが持っているのだろうが、非常に稚拙なものから、実に高度なものまで千差万別である。また、まったく逆の価値観を採用している場合もある。社会通念といったものが混乱している。

現代には個人が、好き勝手な価値観を選択できる自由があるが、その分どれが正しいのか誰にも分からない。いろいろな考え方があるのはいいことだが、そのベースとなる基本的な人間性は、共通点を持っているべきではないだろうか。

そうでなければ、究極的に人は分かり合えないという結論になる。あらゆる議論が、はなから接点を無くしてしまう。

さてここからが教育との関連だが、ぶっちゃけて言うと、宗教があったほうが何かと楽だろう。例えば子供がいうことを聞かないとき、「自分勝手ばかりいっていると、神様の罰があたるよ」と言うだけで聞き分けてくれたら…

子供はいつまでも、親の言いなりにはならない。親が特に支配的でなければ、自分のやりたい事をやろうとする。また、親がいつも正しいことを言うとは限らない、ということにも気づき始める。そんなとき神様の威光が、親の言葉を強化してくれる。

こう書くと、「ずいぶん功利的な考え方だなあ」と思うかもしれない。しかしかつての日本でも現代の世界でも、これは広く行われているはずだ。

「嘘をついたり、人のものを盗ったり、人に迷惑をかけたら罰があたるんだよ」「誰も見ていないと思っても、神様はちゃんと見ているんだからね」

昔の子供は、親からそんなふうに教わってきた。これは神を心に住まわすことで、子供が自分を律するための、サポーターとしていたのではないだろうか。誰も見ていなければ不正を行えても、誰かが見ているとなるとそうはいかない。

宗教を大切にしている社会ほど、この効果は長く続く。大人になってからでさえ続いている国家もある。

私は初めて親の財布から300円を盗み出したとき、神様が見ているかもしれないと、思わず天井を仰いだ。7~8歳ぐらいのことで、これが私の中で神が死んだ瞬間だった。

また現代の親は、最も大切にすべきものは何かといった、価値観のようなものを子供に伝えにくくなっているのではないだろうか。社会の変化が速すぎ、親と子供の育ってきた環境に大きな隔たりができ、共通した価値観を持ちにくいように思えるのだ。

これは私と親の世代が、最も大きかっただろう。私の親の世代は、戦後の焼け野原で、命にかかわるほどの飢餓や空腹と隣りあわせて育った。彼らは農家のゴミ箱から拾ってきた芋のつるや、田んぼのカエルを食べて飢えをしのいだのだ。

しかしその子供である私達は、経済の急激な成長とともに育ち、社会に足を踏み出すころには、その成長は頂点に達していた。高価な世界の美食に舌鼓をうち、口にあわなければ食べ残すようにさえなったのだ。

親はモノを大切にする教育をしていたはずなのに、気がつけば、使い捨てを奨励する社会になっていた。

誰かが貧乏な境遇から、一代で巨万の富を築く話はありふれている。しかし国家全体が、一世代でこのような変化を経験することは、例の無いことだろう。豊かになることは悪いことではないのだろうが、急激過ぎることで、たくさんの混乱を道連れにしているように思う。

経済的な変化ばかりではない。国際化が進むにつれ、海外の文化が加速度的に身近にあふれるようになった。それらのいくつかは、大人からはいかがわしいものに見え、若い世代としばしば対立を生んだ。

エレキギターは不良の始まりであるとか、ハンバーガーとやらは歩きながら食べるものらしいが、日本人としてその行儀の悪さを受け入れてよいものかとか、今となっては滑稽なことが、新聞紙上で大論争となった。

この記憶からだけでも現代の日本人は、わずか2~3世代前の日本人と、ずいぶん違う人々になっているように思える。

さらに技術革新も、親に新たな選択を何度も迫った。テレビの視聴時間は何時間までが許容範囲だろうかとか、テレビゲームの場合はどうだろうかとか、携帯電話を持たせるのは何歳からが望ましいのかとか、次々と難問が突きつけられた。親と子供はそのたびに対立してきた。

親は真剣に答えを探そうとしていただろうが、若い世代はそんな親たちを「古い」で片付けてきた。

親の常識を「古い」と考えてきた世代が、今では親になっている。そして自分の子供を前に、自分の常識が通用するのか確信が持てない。今でも親は、次々と新しい問題に直面し続けている。そのたびに確信の持てない、とりあえずの結論を下している。

社会の変化が緩慢だった時代にはなかったことだろう。今の親は、これだけを見ても大変なのだ。

だから人生にとって大切なもの、究極の価値観といった問題でも、確信を持って子供に話してやりにくいのではないだろうか。経済を中心にした、この激しい競争社会の中で、伝えておくべき正しい価値観とはなんだろう。

こんな時代でも、宗教の生きている社会では楽だし強い。親から教わってきたことを、そのまま伝えてやればいいのだから。

神や仏の教えは(その社会では)究極の真理であり、時代にかかわりなく色あせない。世代ごとにライフスタイルが変わっても、すべての世代に共通する常識や価値観をもてるのだ。

最近はあまり耳にしなくなったが、「親はなくとも子は育つ」という古い言い回しがある。これには別の意味があるのかもしれないが、こう読むことも出来る。

思想や宗教が生きていれば、すべての大人が同じテキストを根拠に、いつでも、どの子も正しく導くことが出来る。「父親の役割」で書いた、「人間への社会化」の、良いテキストになっていたのではないだろうか。

個性的であることが美徳となっている現代では、同じような教育という言葉は、ネガティブに聞こえるかもしれない。しかし多くの人が抗えない正論を持ったテキストなら、無理やりはみ出す必要はないだろう。

かつて日本では、「人様に迷惑をかけてはいけないよ」といった教育をしていた。人様とは自分以外の全ての人であり、大きく見れば地域社会である。

これは公徳心というものだろう。人(と地域社会)を大切にして、それらから愛される人間になりなさい、というぐらいの意味だ。そうすれば子供は社会の中で生きやすくなる、という親の願いだろう。

現代の日本では、「いい大学に入って、いい仕事につきなさい」という教育をしている。これは競争に勝ち、人より良い立場に立ちなさいという意味だろう。

これも、いい人生を送って欲しいという親の願いだ。おそらくこの考え方は間違ってはいない。現代が競争社会であることは確かなことだ。

だが、そのことばかりが強調されすぎていないだろうか。いくら社会的・経済的に成功しても、幸せを感じるかどうかは、心の持ちようにかかっている。物質的なものばかりでは、人は本当の満足を得られないのではではないか。

この根拠になりそうな本を、かつて読んだことがある。桐嶋洋子さんの「寂しいアメリカ人」だ。時代はやや古いのだが、アメリカで成功を収めたセレブリティたちが、信じがたいほどの贅沢を享受しながら、いかに寒々とした精神世界に生きているかが紹介されていた。

たくさんの人々に囲まれ、幸福を独占しているように見えるセレブたちは、心の孤独にさいなまれ、信頼できる人を求めていた。彼らは幸福な境遇であると理解していたが、幸福感を持っていなかったのだ。

 

人はどうあるべきか、何が大切なものなのか、生きる喜びはどこにあるのか、といった精神的な教育を、あなたは子供にどのくらい話しているだろうか。これらの教育に時間を費やしている家庭は、残念ながら少数派ではないかと思う。

なぜなら現代の日本では、愛や正義といったことを振りかざすことは、なんとなく気恥ずかしいことになっているからだ。

しかしせめて自分の子供の前では、親は胸を張って、これらの正当性を主張すべきではないだろうか。

おそらく宗教のある国では、正義や人間愛に殉じた勇者や聖者の物語を、我々が桃太郎の話を聴いたように、自然に親から受け継いでいる。この厄介で多少気恥ずかしい、家族・隣人・博愛・勇気・正義・誇りといった教育を、世界中の親は、自分たちの神の言葉に従いおこなっている。

いや見ようによっては、自分の考えを、神に代弁させているのかもしれない。ひょっとしたら我々が失ったのは、神や仏ではなく、家庭教育の重要な部分ではないのだろうか。

科学万能の時代にどの国も、宗教に敬意を払っているわけがなんとなく分かる。日本人は宗教や思想を捨て去った事により、大切なものも失いつつあるように見える。

私にはうまくこれを言い表せないが、お金や地位といった、本来二次的であったものが、これに取って代わろうとしているように思える。それにつられるように、共通したモラルや、規範さえ失いつつあるように見える。

こんな時代でも親は、子供に信ずべき価値観を育てなければならない。そうしなければ、子供は生きていく指針をもてない。何を選択するかは、親の自由意志にゆだねられている。

かつて神がおこなってきた役割を、親が代行しなければならない。それが今の日本なのだ。

追記・・・

宗教や思想という言葉を乱発したので、ドン引きされてしまったかもしれない。ここで私がイメージしているものは、もっと素朴な情緒であり、ひいては道徳や倫理観というようなものだ。

道徳や倫理を持ち出すと、さらに引かれてしまうかもしれない。しかしそんな人でも親になってみると、これらのものの価値を見直し、子供たちにも持ってほしいと願うのではないだろうか。

ルール違反にならないような教育は、多分ほとんどの家庭で行われているだろう。嘘・悪口・いじめといったものには、多くの親がブレーキをかけていると思う。しかし愛や正義や勇気の発露といった、積極的な行動にはなかなか手が回らないのではないだろうか。

阪神・淡路大震災のとき、多くの若者がボランティアとして被災地に集まった。これを見たとき、「いまの若い人は、捨てたもんじゃないな。いや、俺の頃より出来がいいかもな」と考えたことがある。学歴偏重が少し弱まり、たくさんの親が、人間らしい情緒をきちんと教えているのだろう。

しかし何もしていない親や、したくても上手くできない親も、おそらくたくさんいると思う。宗教や思想を持っていれば、これらの親のサポートになるだろうと思うのだ。テキストがあるということは、やはり楽だと思う。そして社会風潮的にも、ある程度の強制力が生まれる。

一方テキストを持っていないと、意識を持った親だけにしか、これらの教育は期待できない。先細りになり、忘れられてゆく心配がある。

テキストをひとつに絞ることを、思想の統一と考えるかは微妙なところだ。すべての国が、自国の宗教をファシズムのようには捉えていないが、いちど手放した日本では取り戻すことは容易ではないだろう。

宗教に変わるような、身近な家庭教育の継承を、我々は手に入れることができないのだろうか。「神様ヘルプ」とは言いたくない。我々の英知で乗り切りたい。

「道徳教育」が、学校教育の正式な科目に採用されたと聞いた。これはよい流れだと思う。親が大切な役割を放棄したと、ネガティブには考えたくない。

しかし、そうなるかどうかは、親の受け入れ態勢にかかっていると思う。親がこれを、重要な学問であると考えなければ、何を教えても子供達の心には届かない。受験勉強を妨げる、時間の無駄になり下がってしまう。
 
残念ながら我々は、受験科目以外は重要でないというような教育や、風潮の中に育ってきた。

私が子供の頃にも道徳の時間はあった。「差別」や「男尊女卑」が、してはいけないことだとそこで習った。我々が現在、どの程度これを実践できているか分からないが、もし教わっていなければ、もっとひどい世の中になっていただろう。

思想や道徳の教育は、未来を変える教育なのだ。
 科学技術が進歩し、便利な道具が身の回りにあふれても、それを使う人間の心持ちしだいで、住みよい社会になったり、生きる喜びが得られない社会になったりする。

子供のいない私にとって、私が死んだ後の世の中がどうなろうと構わない。しかし子を持つ親にとって、未来の社会がどうなるかは、切実な問題であるはずだ。

社会という字を見て、イメージして欲しい。たくさんの人が集っているシーンが見えてくるはずだ。親はそこに我が子を送り出すとき、彼らが心豊かな、よき人たちであって欲しいと願わずにはいられない。

彼らにそれを望みながら、自分の子供にだけは別のことを望むようでは、精神性の低さを指摘されても仕方あるまい。それとも我々は、海外の人が指摘するように、右肩上がりの折れ線グラフにのみ価値を見出す、エコノミックアニマルに過ぎないのだろうか。

End

5 反抗期の過ち

私は小学校の低学年の頃から、反抗期という言葉を知っていた。母親同士がそんな話をしていた記憶がある。またテレビでも何回か耳にしたし、やがては学校でも習った。だから反抗期の存在を疑ったことはなかった。

しかし「私には反抗期がなかった」と証言する人を、テレビで何度か見た。どうやら反抗期を自覚しなかった人は、決して珍しくはないらしい。

反抗期を大きく回避する方法があるのかもしれない。思えば反抗期とは苛立ちに満ちたものであったが、我々はいったい何に苛立っていたのだろう。

私は反抗期を自覚しなかった人がいると知ったとき、しばらく信じられなかった。反抗期の存在を、確かに学校で習った記憶があるのだ。だからみんなが経験するものだと思っていたし、それが健全な発育段階だと思っていたのだ。

いったい彼らと私のどこが違っていたのだろう。その手がかりとして、初めて自分が親に反抗したときの事を思い出してみた。そしてひとつ、確かなことに気がついた。

反抗期があった人は、ぜひ一度思い出してほしい。はじめて親に向かって「うっせーな、くそババア」みたいな事を口走った瞬間を。きちんと思い出せれば、事態がすっきりとよく分かる。

そのときあなたは、親と断絶したかったのだろうか。これからもずっと、和解せずにいようと考えていたのだろうか。

私はそうではなかった。言った瞬間にしまったと思ったし、ひどい事をしてしまったとうろたえた。だけど素直に謝れなかった。

どうして謝れなかったのか、懸命にそのときの事を思い出してみた。たしか母親のいうことがずいぶん一方的に感じられ、自分の今やっている事がそんなに非難されるような、悪い事だと思えなかったのだ。

彼女の独断と偏見に憤りを感じたし、言いなりになるのも嫌だった。小学生を相手にしているような、頭ごなしな口調も不愉快だった。

そのくせ、親の言うことは聞かなければという、子供としての義務感もあった。そのせめぎあいの中で混乱し、我を忘れてしまったようだ。

さてここで、ゲームをやってみたい。「あの頃と変わってないなゲーム」である。バカバカしいと言わず、ちょっとだけ付き合ってみてください。

私は30代の半ばの頃、自分の意識が20代とそう変わってないことに驚いた。20代の頃は、30代の半ば頃には十分な大人になっていると思っていたのに、20代より成長したという実感を持てなかったのだ。

そういえば20代が終わる頃も、学生時分とそう変わってないなと感じたものだ。私はろくに成長していないか、本人でさえ分からないほど、緩慢にしか成長していないようなのだ。

さらに成人式を迎えた日も、高校生の頃とたいして変わっていないように思った。このへんで、ちょっと怖くなってきた。

しかし記憶が高校一年生まで遡ったとき、やっと安心した。

高校生になった頃、中学生時代が妙に遠くに感じられ、今の自分はあの頃の自分と違うのだ、という確信があった。もう大人になったとは思わなかったが、子供ではなくなりつつあるのだと、気づき始めていた。初めてそう感じたとき、胸がドキドキしたことを覚えている。

あの頃と変わっていないなぁという思いは、この時期以降のものなのだ。

皆さんには、このような経験はないだろうか。身体的な変化でなく、精神的な変化として、自分が大人になりつつあると感じた日はなかっただろうか。あったとしたら、それは何歳くらいの事だったのだろうか。

種明かしみたいになるが、心理学の本にも自我の成立は14~6歳と記されている。しかしテキストに書いてある学問的な知識より、自分の記憶を振り返るほうが実感できる。

さてゲームを終了して、反抗期の話に戻ろう。どうやら人は、中学生の半ばから高校生の半ばまでに、子供ではなくなってしまうものらしい。このことに改めて驚いてしまう。親はこのことを意識しているのだろうか。

子供の成長は驚くべき速さだ。それを実感できるのは、親戚の子供と2~3年ぶりに会ったときだろう。身長も顔つきもバージョンアップし、ハニカミなんかも感じているみたいだ。こっちまで照れてしまう。

しかしあなたの子供も、おなじだけ成長しているのだ。あなたは子供に対して、その成長に合わせた対応をしているだろうか。

子供が6年生になっても、親にすればよちよち歩きだった頃の事が、昨日のことのように思い出せる。お尻をきれいにしてオムツを替えてやった事だって、そんなに昔の事とは思えない。

しかしそれは、あくまで親の時間感覚だ。大人にとって去年と、今年と、来年の自分はたいして違ったものではない。しかし3年あれば、子供はまったく別人になっている。

身近にいるからこそ、その成長に気づくのはなかなか困難なことだろう。おそらく子供はチラチラとサインを送っているのだろうが、よほど注意深い親でなければ、うまくキャッチすることはできない。

そしてある日、誰にでもそうとわかるサインを送って、親をビックリさせる。それが反抗期というものだろう。

しかし子供たちは反抗しているのではない。生まれてはじめて子供としてではなく、親と同列の一人として言葉を話し始めたのだ。ただそれが、ものすごく下手糞なのだ。

子供は親の言うことは、きくべきだと思っている。親の言うことは面倒くさいが、たいていは正しく、自分のためだとわかっている。

それなのに最近、親の言うことが妙に気に障る。頭ごなしな言い方に、なぜか不愉快になる。言いたいことがあるのに、どうしても上手く言葉に出来ない。それでも今までどおりに振舞おうと、自分を矯める。

このイライラが我慢の限界をこえ、キレた状態で声を上げるのが「うっせーな、くそババア」なのだろう。
 親に従わなければ、叱られる事も承知している。だからけんか腰になっているのだ。恐怖心の裏返しともいえる。

たいていの親が反抗期の始まりを知り、おそらくうんざりするだろう。いままで仲の良い家族だったのに、これからは対立の日々が始まることを、自分の経験や、これまでの知識から知っているからだ。

子供の口答えに、カチンと来る親もいるだろう。来るべきものが来たと、静観を決め込む親もいるだろう。これから子供とうまく付き合っていけるか自身をなくし、悲嘆にくれる親もいるかもしれない。

気がつけば自分と身長もたいして変わらず、いくつかの悲惨なニュースを思い出し、恐怖する親さえいるかもしれない。親にとって反抗期とは、子供が思っているより、ずっとインパクトのある事件なのかもしれない。

親はこの声を反抗としてとらえず、新しい家族の産声だと考えるべきだと思う。見た目はなにも変わらないのに、昨日までとは何かが違う存在になったのだ。

ならば新しい人間関係を、確立する必要があるだろう。それは相手が、もう子供ではなくなりつつあるのだという事実を、反映したものでなければならない。

しかし多くの親は、反抗期という言葉に惑わされ迷走する。「親の威厳」などという言葉を思い出し、いままで通りの親子関係でありつづけようとする。特に父親は「ここで負けると、親が子供になめられる」と競争心を掻き立て、力関係を保とうとする。

すべての子供が、仲の良い家族を望んでいる。対立的で、寒々とした親子関係を望んでいる子供など、どこにいるだろう。

子供はいままで通りに振舞いたいのだが、なぜかそれが出来なくなっていく自分を、持て余しているだけなのだ。ヒステリックな叫びになるのは、親を恐れ、どう振舞えばいいか分からず、パニックを起こしているからなのだ。

反抗期を挑戦ととらえ、それを迎えうとうと、対抗的な態度をとるのが日本の親たちだ。あるいは数年で終わる通過儀礼として、本気で相手をしない親も大勢いるだろう。これらが対立を深め、問題を深刻化させていくのではないだろうか。

こうみると家庭内に反抗期を持ち込んだのは、むしろ親のほうに思える。反抗期というのは、子供が反抗している期間ではなく、親が子供の成長を認めきれず、子供であり続けるよう強いている期間ではないだろうか。

最近は少なくなっているようだが、少し前までの日本の映画やドラマなどでは、たいていの父子(中高生くらい)がよそよそしかったり、対立していたりしていた。しかし欧米のドラマでは、父と子であるからといって、必ずしもそのように描かれてはいない。「バックトゥ・ザ・フューチャー」で見た父子の仲のよさは、当時青年だった私には、奇妙なものにさえ見えた。

ひょっとしたら日本人だけが、父子が対立的であることが、あたりまえだと考えているのではないだろうか

欧米の子供たちにも、もちろん反抗期にあたる時期があるだろう。しかし彼らの社会には、個人主義というセンスがある。子供であっても個人であると認め、親はその声を聞く耳を持っている。これが親子の対立を、回避しているのではないだろうか。

そういえばアメリカでは、自己主張のできることが良い子の条件だったのに、日本の学校でそれをすれば、反抗的な子供と取られる可能性があると「母心」のところで紹介した。個人主義という言葉は誰でも知っているが、日本人には理解しにくい感覚なのではないだろうか。

日本人は個人というものを抑圧してでも、家や家系を重視する文化をもっていた。また封建的な家長制度のもとで、家族は家長の意見に従う事が強いられてきた。さらに儒教的な思想が、年長者を敬うようにもさせていた。

子供は自己主張をせず、家長であり年長者でもある親に、従うものだと考えてきたのだ。今でもこれらの感覚が、引き継がれているのではないだろうか。

しかしこの制度が生きていた時代は、成人式(元服)が15歳だった。だから15歳の発言を、親はひとりの大人の意見として耳を傾けることができた。

本人にしても15歳から成人であり、精神的に親から自立しなければならない。ここまで育ててくれた感謝こそあれ、反抗などしている暇があっただろうか。

こうして昔の人は、反抗期を回避できたのかもしれない。この15歳というのが、自我の確立の年齢に符合していることは、注目すべきだろう。反抗期とは、近代化がもたらしたライフスタイルと、人間本来の、成長段階のギャップといえるかもしれない。

現代では成人式が20歳なので、どうしても15歳を過ぎても、まだ子供だと考えてしまう。自我が確立した一個人になっていても、子供らしく従順に振舞う事を強いてしまう。

子供も、そうあろうとする。子供は成人式がくるまで、自分が大人になったと言い切れないのだ。子供でなくなりつつあることに気がついたとしても、いつから大人なのか、大人であるとはどんな事なのか分からない。これからどのように振舞えばよいのかが分からないのだ。

親子双方の誤解や、思い込みによる混乱が、反抗期を作っているのではないだろうか。

この時期を無事に過ごすことは、おそらく難しいことではないと思う。子供がもう子供でなくなりつつあることを、親が素直に受け入れることだ。そして今後は、頭ごなしに言うことをきかせるのではなく、きちんと話して了承させるように心がけることだ。

なにも他人様になったわけではないのだから、つまらない遠慮は必要ないだろう。部屋に入るときにノックをするような、人間同士として当然の気配りやエチケットを持つだけだ。(そう考えると我々の常識は、子供に対してかなり無神経なのかもしれない。個人を重んじる西洋人は、自我が確立する前の子供でも、最低限のエチケットを持って接しているかもしれないのだ)

最初の会話はぎこちないものだろう。お互いにまだ慣れていない。そしてやはりまだ大人というには早すぎ、自己主張の内容も、幼稚で自分勝手なものかもしれない。

なにせ心は大人になりつつあるのに、頭の中にある記憶や知識は、子供の頃のものばかりなのだ。そう考えればこの時期の子供が、いかに不安定なものなのかが理解できる。

親がここで粘り強い態度を示すか、短気で対抗的な態度を示すかで、今後の親子関係は大きく変わる。聞く耳を持たなければ、子供は二度と親に本音を語らなくなる。粘り強く待ってやらないと、子供は初めての自己主張がうまくできない。

いま大人であるあなたは、親とリラックスして話しているだろう。この人間関係を、子供は初めて経験しようとしているのだ。

人間関係を変えるということには、かなりのストレスがあると思う。大人でも、たとえば後輩のほうが先に出世して、立場が横並びになるか、逆転してしまったとき、お互いどう話しかけるべきかに気を使うはずだ。

だから子供にも、このことを話してやる必要があると思う。子供は大人になるということがよく分かっていないのだ。

言いたい事があるなら、我慢しないでいいから、言葉にするように話してやるべきだろう。子供は、特に日本の良い子供は、我慢することに慣れている。

君はもう大人になりつつあるのだから、少しずつでいいから、そのように話すようにしなさいと声を掛けてやれば、子供は駄々をこねるような自己主張を、改めようとし始めるのではないだろうか。

これがうまくいくかは、それまで会話を多く持っていたかどうかにかかっていると思う。いきなり話し合いで物事を解決しようとしても、うまくいかないはずだ。それまで会話をする習慣があればこそ、話し合いという、少しあらたまった会話ができるというものだ。

 私は学者ではないので、どこまで正しい主張をしているのかよくわからない。ただ子供が、親との対立や断絶を望んでいないことだけは確信している。我が家が親子の、冷たい対立の場であって欲しいと思う子供など、いるわけがない。すべての子供が、暖かく仲の良い家族を求めているのだ。

そうであるなら親の姿勢ひとつで、解決(あるいは改善)できる問題ではないだろうか。仮に困難であったとしても、決して不可能なことではないように思う。

 

 反抗期を誤解することは、非常に危険なことだと思う。子供はどんな時期もなにか問題を抱えるものだが、この時期に遭遇する問題が最も深刻だ。

14~6歳といえば将来のことを考えたり、不良と呼ばれる人種に出会ったり、本格的に異性との問題にぶつかる頃だ。この時期に親に相談できないという環境は、どう考えても望ましいことだとは思えない。未熟な考えが、袋小路に入り込んでしまう。

この時期に、いろいろな大人の考えを参考に出来たら、子供は良い成長ができるだろう。しかし現代の子供は、身近に大人が少ない。教師という大人が身近にいるが、彼らとは基本的に一年ごとの付き合いだ。また3~40人でひとりを共有している。

引越しなどの移動も稀ではなく、そのたびに子供の人間関係は細切れにされている。昔は叔父・叔母などが、非常にいい相談相手になっていたそうだが、少子化の現代ではその存在自体少ない。

子供どうし以外のあらゆる人間関係が、閉じているのが現代だ。そのうえ親までが遠ざかってしまえば、子供は何を頼ればいいのだろう。孤独に耐えるか、徒党を組むしかやりようがない。

テレビや雑誌で紹介されている、深夜になっても繁華街をたむろする若者たちは、親に自己主張がきいて貰えなかったのではないだろうか。この場合のきくとは従うという意味ではなく、正面から向き合い、理解し合おうと努力することだ。

聞く耳を持っていない人には、話をすることに意味がない。その場にいる必要もなくなってしまう。こうして家庭が、子供の居場所でなくなっていく。

細かいことにこだわるようだが、我々はこの「反抗期」という言葉に、翻弄されているのではないだろうか。子供が寒々とした、対立的な親子関係を望んでいない事など、少し常識を働かせれば当たり前のことだ。

「反抗期の存在」というもうひとつの常識が、子供の懸命な叫びを反抗であると、親をミスリードしてはいまいか。

これは人々から自然発生した言葉ではなく、おそらく学者の考案した専門用語なのだろう。そしてそのような時期が子供にはあると、学問的にも認められている。反抗期というのは親にとって重大な問題だからか、ほとんどの人がこの言葉を知り、受け入れている。

しかし反抗期が起こるメカニズムは取りざたされず、「反抗」という言葉だけが一人歩きをしているように見える。子供は知らないうちに、時期がきたので闇雲に、幼稚な反抗している事にされている。

そして子供にはいやな言葉だ。いま自分の感じている怒りや苛立ちは、学問的に分析・分類できる、「反抗期」などではないと思っているのだ。反抗しているというより、むしろ親の一方的な態度に腹を立て、無神経・無理解を嘆いているはずだ。

ひょっとするとこの時期の子供には、親のほうが変わってしまったように見えているかもしれない。思春期の初めの頃は、自分の心のほうが変化し始めたことに気がつかないからだ。地球から飛び立ったロケットの窓から見れば、遠ざかっていくように見えるのは地球のほうなのだ。

だから子供の必死で懸命な言葉を、「おや、反抗期かい?」などと十把一絡げにしてしまうと、子供のプライドを傷つけることになってしまう。親に誤解を生み、子供のプライドを傷つける言葉だ。

 私は昔からある言葉を、安易に使えなくすることはあまり好まないが、この言葉は改めたほうが良いと思う。誤解を生みやすい言葉だからだ。

さらに対立的な表現のため、親子に要らぬ対立さえ起こさせている。思春期の子供たちから、親を遠ざける言葉だと思う。

反抗期の過ちを犯しているのは、一体誰なのだろう。

追記…

「反抗期」という言葉を改めるだけで、ほんの少しかもしれないが、親子の無用な対立を和らげることはできないだろうか。言葉から人の持つイメージというのは、重要なことだと思う。

あまり詩的に飾った表現にする必要はないだろうが、「覚醒期」「飛翔期」「離脱期」「羽化期」など、祝福を感じられるものであれば、親のイメージが変わり、取り組みの姿勢までもが変わるのではないだろうか。

子供にしても「反抗期」という言葉より、自分の変化を受け入れやすくならないだろうか。反抗期という表現は、滑稽でさえある。

もしそうなら、識者や行政の怠慢だと思う。色々な手立てを模索せず、たくさんの親子の対立を放置するのは、国家的な損失であるとさえ思う。親子の対立による悲惨なニュースを、私はもう見たくないのだ。

反抗期の過ちを犯しているのは、本当にいったい誰なのだろう。

End

6 体罰の是非問題の理解と、解決に向けて

長文のため前半は省略し、いくつか見落としやすいことだけ抜書きしました。

●体罰は叩くシーンだけを考えがちだが、幼児に対してはケアを行い、それが非を認めて乗り越える訓練になっている。

たとえば父親から体罰を受ければ、母親が「大変だったね、よく辛抱したね」と褒め、「でも、悪いことはいけないことだよ」と柔らかい言葉で非を認めさせ、「もう分かったよね、これからはいい子だよね」というような言葉をかけ、震えている子供を立ち直らせている。ここまでを含めたものが体罰ではないかと思う。

つまり体罰は「被・暴力体験」というより、「許され体験」や「和解体験」なのだ。体罰を受けた世代が懐かしむのもそのせいだろう。

自分の非を認めることは大人になっても辛いものだが、この「強さ」や「誠意」を手に入れることは重要なことではないだろうか。体罰反対論は、誰もが陥りやすい「すねる、逆恨み、非の転嫁」に正当な理由を与え、子供の精神的な成長を阻害しているように思う。

●「体罰は人権侵害だ」ということだが、誤解がないだろうか。そもそも罰とは懲らしめることであり、人権侵害に見えることは当たり前のことなのだ。大人社会の「禁固刑」でも、理由がなければ人権侵害だろう。

つまり罰とは「一時的な人権侵害であり、それて支払っている(償っている)と考えるべきではないかと思う。罰に人権侵害を指摘するなら、過剰・不適切(辱め)などをいうはずだ。その直後から日常生活に復帰できるほどの負荷を、非人道的といっていては、非の支払いにならないし、再発防止にもならない。

●男の子に蹴飛ばされて、泣いている女の子の人権はどうなるのだろう。このことだけでもなにか支払い(償い)は必要ではないだろうか。もし再発があれば、女の子にすれば「大人は何もしてくれなかった」ということになる。

また遅刻や忘れ物にしても、あまり過ぎるようなら守っている子が馬鹿らしくなる。自我の確立した大人なら別かもしれないが、子供は「なんで自分だけ我慢する必要がある」と考えやすいものだ。

つまりきちんとした子供の理性や、その親の教育が侵害されるのだ。この「見えにくい被害」は全体のモラルの低下を招き、その損失は計り知れない。

モラル低下は実際に起こっている。大学生の私語が収まらず、授業が成立しないことがあるというのだ。一世代目で目に見える変化があるなら、二世代目三世代目が心配になる。

●叩くことは確かに人権侵害に見える。しかし被害を放置することも、彼らから何かを奪っているように思う。いったいなのを奪っているのだろう?一般社会で考えれば、たぶん「社会正義」だと思う。

子供とはいえ人の集まり(社会)である以上、トラブルが発生することは疑いようがない。そして彼らの社会には、警察に当たる人も、裁判官にあたる人もいない。現実問題として周囲の大人がこの役を買って出ないことには、彼らの社会に秩序は保てないはずだ。

●話が前後するが、皆さんは人権の「定義」をご存知だろうか。調べてみると人権には定義がないのだ。つまり人それぞれの解釈論といってもよく、人権意識のある人同士でも、解釈によって違いがあって当然だと思う(感情論に陥りやすいことも)。

人権論者の意見をそのまま受け入れてはいけないと思う。そんなことをすれば、「(死刑の是非はおくとして)死刑は人権侵害だ」と彼らが発言すれば、そのまま法律が従うことになるからだ。立法や司法の上部構造とするなら、我々全体が発言し、その正否を考えるべきだと思う。

「人種差別の禁止」も「奴隷制度の廃止も」人権論だからといってただ受け入れられたのではなく、当時の人によるこの作業を潜り抜けてきたのだ。正しい人権論なら、この作業に耐えるはずだ。

●次に日本と西洋の、伝統的な子育ての違いを知っておいて欲しい。昔から来訪した西洋人が、自分たちとの違いとしてそれを書き残している。

安土桃山時代に来訪したルイス・フロイスによると、「驚いたことに子供に鞭を使わずに言葉で戒める」「これほど子供を可愛がる国民を見たことがない」「日本の子供は立ち居振る舞いが完璧で、のびのびして愛嬌がある」。

江戸初期に来訪したフランソワカロンによると、「日本人は子供を注意深く、かつ優しく育てる。たとえ一晩中やかましく泣いても、ぶったりする事はほとんどない」。

幕末では「日本人は子供たちの無邪気な行為に寛大すぎるほど寛大であり、手で打つなどとてもできないくらいである」フィッセル(蘭)「日本人はけして子供を打つことはない。文化を誇るヨーロッパの国民が、その子供たちに盛んに加える、この非人道的にして且つ恥ずべき刑罰法を、私は日本滞在中見たことがなかった」オールコック(英)

明治期にはいると「日本の子供は善良で礼儀正しく、のびのびしている」バシル・ホール・チェンバレン(英)「これほど子供を可愛がり、いつも一緒にいる国民をみたことがない」イザベラ・バード(英)

いくつか割愛したが、これのウラに当たるのが西洋スタイルだ。だからといって日本に体罰が無かったわけではなく、江戸時代にはいくつか「体罰を止めよう」という趣旨の論文が書かれている。つまり「あった」ということだ。

●教育機関でも大きな違いがあり、日本の寺小屋や私塾では、叩くという暴力に類する罰はあまり見られなかったようだ。一方、西洋の教育機関の様子だが、16世紀フランスの思想家モンテーニュの「随想録」にはこう記されている。

「学校はさながら子供たちを入れる監獄か牢屋のようなところで、いたずらも何もしていないのに鞭で子供を叩き、授業中に聞こえてくるのは、子供たちの悲鳴と教師の怒鳴り声だけだ」「教師は鞭を手にして子供たちに向かい、やがて血にまみれた鞭の切れ端が飛び散る」

●なぜ西洋人がこれほど過酷な体罰をしていたかというと、なんと聖書に子供を鞭で叩くことを勧める記述が数箇所あり、「子供をよく育てたければ、鞭を惜しむな(聖書にそう書いてある)」というのが、西洋人の基本姿勢だったのだ。

これは「人は原罪を負っている」という性悪説的な宗教観とあいまって、子供の原罪を抑えるためと考えられてきたようだ。叩くことにためらいがなかったため、19世紀初頭のイギリスでは、労働力としての子供の扱いは奴隷のようなものだったという。

●鞭を使ったこのような体罰は改めるべきだと思うが、彼らのジレンマはこれが千年近い伝統・文化となっていることと、聖書崇拝が強いことだ。実際に今でも聖書を信じ、進化論を否定している人が大勢いるし、信仰心の厚い西洋人ほど聖書の曲解を畏れ、書いてある通りに信じようとする人が多いのだ。

つまり精神的に問題を抱えていない人でも、いつ虐待に陥るか分からないということだ。だから彼らは、古典的な体罰の可能性を認めるか、廃止してしまうかの、極端な二者択一しかできないのではないかと思う。

●この西洋の理屈や事情を、言葉を翻訳すれば同じものだからと、そのまま日本に持ち込んでいるのが人権論だ。だから体罰の「害」も、首をかしげるようなものばかりになる。

被害を受けるものがいるなら「口で言えば分かる」ではなく、何かの罰は必要ではないだろうか。私が体罰をほかの罰より優れていると思うことは、手をあげるということは「怒りを表すボディーランゲイジ」であり、人を怒らせることに慎重になろうとするからだ。

いくら法で禁じても、しつこく怒らせれば、いつか人は手を上げる。これを知っているから、ブレーキになるのだ。この手の方に非があると考えることは、非常に危険なことだと思う。

(ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。さて、ここからが「父性と母性の相互補完を考えて欲しい」という、本文になります。

みんな子供のことを真剣に考えているのに、これほどの対立が生まれるのはどういうことだろう。体罰の是非には見落としている、もっと根本的な問題でもあるのだろうか。

そう考えているうちに、こんなふうに思えてきた。ひょっとすると体罰の是非論とは、父性と母性の対立ではないだろうか。男女がお互いの気持ちをなかなか分かり合えず、しばしば対立してしまうように、父性と母性がその行動原理のままに発言しているから、いつまでも理解し合えないのではないだろうか。

ネットを覗いてざっと数えただけでも、男性は賛成派・容認派が、女性は反対派・慎重派が多いようだ。男女の違いは、体罰の是非に大きな意味を持っていると思う。

(ただし父性と母性は男女ともに持っており、その割合が傾向として現れるものだ。だから男女の争いというより、何を中心に考えるかの争いであり、結果的に男女の傾向が見え易いということだ。また、叩くことが父性なのかという反論もあるだろうが、叩くというよりきちんと罰するということだ)

父性のキーワードは「切断」であり、母性は「包含」なのだそうだ。切断とは子供を善悪・上下などで二分し、悪は正し、下であれば鍛えようとする。包含とはいかなる区別もつけず、ありのままを受け入れ、包み込むということだ。

いきなり善悪という言葉が出てきたが、両者の態度は体罰の是非そのものではないだろうか。母性は無条件な愛であり、常に許しだが、父性は条件つきの愛であり、悪だと見れば許すことが出来ないのだ。

また、切断とは子供に対して「分離・自立」を迫るものであり、これは外部(社会)への指向ということだ。逆に包含は「密着・依存」を意味し、これは内部(家庭)への指向といえるだろう。これも体罰の是非と大きく関わっている。

罰せられる側から見れば、罰は人権侵害に見えるのだろうが、社会の側から見れば、罰はみんなを守るための社会正義だ。どちらを中心に考えるかで、被害に見えたり、当然の仕打ちに見えたりする。

やはり体罰の是非は、父性と母性の対立ではないのだろうか。体罰の是非を煎じ詰めれば、「子供を守る」と「道徳(社会正義)を守る」に分かれ、これは父性と母性の指向と奇麗に重なっているのだ。

(父性と母性を表すキーワードはほかにもたくさんあるが、おおむね上記のものと関わっているようだ。父性は社会の側から、その厳しさに子供を合わせようとするが、母性は家庭の側から、その安らぎを子供に与えようとしている)

ところがこの違いがそれぞれに役割を与え、子育てに有利な分業を成立させているようだ。社会の規範を尊重し、失敗を責め、やり直しを要求する父性により、子供はより高度な社会性を獲得する。何度失敗しても容認してくれる母性によって、子供は自己を否定したり、諦めたりすることがない。母性が子供に満足・安心・安定をもたらし、父性の厳しいハードルを乗り越えさせているのだ。

父性と母性は対極にありながら、お互いにないものを上手に補って、ひとつのものの完成に貢献しているようだ。この関係は「相互補完」というものだろう。愛情といってしまえばそれだけだが、たぶんいくつもの愛し方があり、シーンによって使い分けが必要なのだと思う。

この違いはやはり、子供を生んだかどうかに大きく関わっているのだろう。母親は我が身を揺り籠にして、文字通り血肉を分けて子供を育み、生死を賭けてこの世に送り出している。分身という意識があり、密着傾向が現れて当然のように思う。逆に父親は「妻が子供を産んだので、自分は父親になった」という間接的な関わりしか体験していないのだ。

また母親が乳房を持っているのは、乳幼児を育てる役割を負っているということだろう。乳幼児というのは、いつ死んでもおかしくないほどか弱い存在だ(ごく最近までそうだった)。母子ともに利己(子)的であることが、この時期の生き残りには欠かせないことだと思う。よその子のことなど、気にしてはいられないのだ。

この時期の父親の役割は、母子への食糧供給だ。これがなければ母親の子育ては、根底から成立しなくなってしまう。どうも母親は子供を生んだことで、一時的に利己(子)主義を帯び、父親は親になったことで、これまでより強い社会性を手に入れることになるようだ。

さらに父性と母性は、指向性の違い以外にも「対立の火種」を持っている。父性の切断には、「母子の密着を切り離す」役割もあるというのだ。父性の側からすれば、やがて来る子離れは当然の営みなのだが、強い母性を持つ母親には、身を切られるような苦痛があるのかもしれない。父性はその役割へのターミネイター(終わらせるもの)なのだ(揉めて当然ではないか?)。

父性と母性の対立が表面化する理由は、少子化の影響ではないかと思う。多産であれば母性の対象は順に下の子供にシフトしていき、そのやり場に困ることがない。また、手のかかる乳幼児を複数持つことが大きな負担になり、自発的に上の子供の「分離・自立」にも協力的になっていけたはずだ。

さらに避けようもなく繰り返される兄弟喧嘩で、いつも下の子が上の子に泣かされているのを見れば、むしろ母親から厳しい対応を求めていた可能性さえ考えられる。いま母性の対象となっている下の子への被害には、我が子であっても、上の子に強く干渉したはずだ。

やはり体罰の是非は、父性と母性に大きく関わっているように思える。もともとの指向性ばかりでなく、少子化というライフスタイルの変化まで、対立を矛盾なく説明できるのだ(感情に左右されているかどうかは、自分の胸に手を当てて考えるしかない)。

もしそうなら父性と母性は歩み寄る必要がある。子供を育てているのは、間違いなく一組の男女なのだ。そしておそらく父性も母性も、子供には必要なはずなのだ。どんなことをイメージしてもいい、エラーを許せる広い心と、それをきちんと改めさせるだけの力がなければ、高い理想には手が届かないのではないだろうか。

(役割論を語れば、女権運動の人には強い反発があるかもしれない。しかしこれはあくまで傾向のハナシで、役割が逆転することは各家庭の自由だろう。ただ同性であっても人が二人いれば、「ボケ」と「突っ込み」のように自然と役割が分かれるのだ。同じことしかできない二人より、それぞれが得意分野を持っているなら、足りない部分を認めあいフォローしあえる二人であろうとしたほうが、「広い視野」で子供に接することが出来ると思うのだ)

西洋には「ベターハーフ」という言葉がある。天上界にいたとき人間は完全体だったのに、この世に生まれたときに半分に引き裂かれ、以来人は、もう半分の自分を捜しているのだという。なんだかおとぎ話めいているが、父性と母性は相互補完的なものだと考えるなら、これは現実をほとんど正確に言い表している。自分ひとりでは不完全であり、配偶者が自分に足りないものを持っているというのだ。

子育ては一組の男女の共同作業だ。考えに対立が生じたとき合意を得ようと思うなら、お互いへの歩み寄りは不可欠だろう。自己主張ばかりをして結論を得ていれば、口先の達者なほうや、腕力の強いほうに正しさが偏る。

こんな時ベターハーフという言葉は、自分に足りない部分がある、ということを無理なく肯定させ、誰もが苦手な「譲歩」をサポートする心配りがあると思うのだ。納得しきれない考え方に譲歩するには、相手への信頼が欠かせない。この信頼を育むため男女は恋愛をし、子供を作るのだろう。営みのすべてが、次世代への布石になっている。

しかし厳しさと優しさを分業にしたのは、神様のグッドアイデアではないだろうか。一人に両立させようとすれば、どちらも中途半端になり、その意味を大きく損なうだろう。上手にできるほう、徹することが出来るほうを、専門家に選んだのだ。

シングルで子育てをする人も、本来は二人でやることだと知っているから、自分の役割でないものまでフォローしようと考えることができるのだ。おそらくこの柔軟性と想像力と自制心を持った人ならば、シングルのハンデを乗り越えて、人間の男女のもつあらゆる情緒を子供に触れさせ、普遍的な子育てに成功するだろう。

そして分業であるからこそ、どちらかの暴走にブレーキをかけることもできる。「甘やかす」ことも「厳しすぎる」ことも、過ぎれば毒になりかねない。つまり譲歩とは役割を投げ出すことではなく、今回は「監視役」に回るということなのだ。

父親が体罰に踏み切ったとき、「お父さん、もういいじゃありませんか。さぁたろう君、お母さんも一緒に謝ってあげるから、御免なさいしようね」

母親のこんな言葉が父親の暴走を未然に防ぎ、落ち着きどころがなくなっている話をまとめ(父親だってこの状況に慣れていない。たいていの父親は、この言葉を待っているのではないか?)、結果的に「お母さんは優しい人」になっているのだ。そして父親は「厳しいモラリスト」になっている(ついでに書けば、母親は父親に同意を示す、優しいモラリストだ)。

たったこれだけの自然なやり取りが、望ましい相互補完を実現しているように見える。前述した、父親の体罰を母親がケアすることも同様だ。お互いが「主張(出番)」と「譲歩(監視役)」をわきまえることで、自然に相互補完が成立するのだと思う。

あまり詳しく書くと各家庭のカラーを阻害することになるが、もし中途半端なものなら、母親による体罰はあまり感心しない。父親の、つまり大人の男の殺気や迫力が子供をビビらせ、その恐怖があるからあまり痛くなくても効き目があるのだ(父親の手加減に気づくのは、ずいぶん後からだ)。

たぶんこれら全部を含めたものが、その家庭の体罰なのだろう。なぜなら、これらすべてを経験する子供だからこそ、叩かれたことだけを切り取ることができないからだ。

フォロー役を、脇役だと思う必要はない(日本の場合いつもは母性が主役だ)。父親の「正義の権威・圧力」が子供のわがままを強く抑制し、母親の日常的な「言葉の教育」を支援することになるのだ。ベターハーフであればこそ、両者は個別のものではなく、一体化して見える。

(ここまでを読んで、どう思われただろうか。私は書きながら「良く出来ている」と、思わずつぶやいてしまった)。

(一部略)

「体罰の是非論は、父性と母性の対立だ」という私の説を、なんとか信用してもらえないだろうか。こう考えれば、かなり常識的なところで決着がつくと思う。あるいは和解の糸口になると思うのだ。

なぜ私がこのように「お頼み」するかというと、そろそろこの問題に決着をつけてもらいたいからだ。この議論を重ねてもう30年近くになるが、今のままでは子供や若い世代に混乱と迷いを生じさせ、人々や大人と子供に誤解と対立を招くばかりだ。

多少の妥協を受け入れなければ、100年経っても物事は解決しない。繰り返しになるが、既に30年近く費やしているのだ。子育てという「生物の最も根源的な営み」に、常識が確立していないなどということは、あってはならないことだと思う(人権論者は沽券にかけても、文化によって体罰に違いがあることを認めないだろう。ならばここにしか突破口はないように思う)

人権論を主張する人は、人権意識の高い人と低い人の対立だと考えていると思う。しかし、人権論といわれれば無批判に受け入れる人ならともかく、普通の人は自分の感情を出発点にして「考え」、それを補強してくれる理屈を採用するのではないだろうか。

(人権論者は、人権論を出発点にすべきだと考えていると思うが、それにはちょっと早すぎる。人権論は一部の人の思い込みで決めるものではないのだ。そう考えることができず、「開明的な我々が、未開明なものたちに号令するのだ」と考える人は、かなり危難な場所にいる。あなた方の思い込みや、沽券や、メンツなど、知ったことではない。蹴飛ばされて泣いている子を救えないようでは、我々もあなた方もまだ大人ではないのだ)

男女の感情の違いといえば、このような話もある。パートナーの裏切りを知ったとき、男女によって責める相手が異なるそうだ。男性は裏切ったパートナーを責め、女性はパートナーを裏切らせた女性を責めることが多いという(誤解がないように書くが、あくまで傾向)。どうも女性は男性に比べて、愛するものの非を認めたがらず、それをよそに見出すようだ。これも体罰の是非と関係がないだろうか。

また叱られるという事も、男女によって受け取り方が違うのだそうだ。たとえば職場で「この企画書では駄目だ」といわれたとき、男性はその企画書が悪いと思うが、女性は能力や人格まで全否定されたように、大きなショックを受けることがあるのだそうだ(職場で泣くのはたいてい女性だ)。

どうも女性のほうが、叱られるということへのダメージが大きいようだが、これも体罰の是非と関連がありそうに思える(ならば男の子と女の子とでは、体罰も同じように扱えないのではないだろうか。腕力が弱いということだけでも、それへの恐怖心が大きいかも知れない)。

これほど感情に大きな違いのある二人が、共同で行わなければならないのが子育てだ。お互いが譲歩し合い、協調し合えるような考え方が、ぜひとも必要だと思う。

ベターハーフなどを持ち出すと、多くの人はおとぎ話だと笑うかもしれない。女権運動家には、取るに足らないカビの生えた旧弊な考え方だろう。しかしこの言葉をいい伝えてきた人たちは、我々よりはるか昔から、個人主義を自然な身の回りの文化としていた人たちなのだ。

たぶん個人を尊重する考えとそう矛盾するものではない。むしろ現代的な「違いのあるもの同士が、お互いを認め合う」ためのおまじないではないかと思う(平たくいえば父性と母性の対立が起こったときの、昔ながらの特効薬だ)。

例え話だから嘘にも見えるが、子供に父性と母性を与えようと思うなら、どんなに優れた人であっても一人ではかなり困難なことだ。これは認めるべきだろう。そして男女には性差による傾向があると考えるなら、誰もが人間としては(対岸からは意固地にも見える)偏りを持っているのだ。これも認めるべきだろう。

おそらくこの言葉は、子育てが終わった世代から、若い世代にプレゼントされてきたはずだ。このリレーが絶えなかったということは、子育てが終わってみれば、なにか「確からしさ」を感じることが出来たのだ。これも否定しきれないと思う。

男性を指差しても、女性を指差しても、人間を説明したことにはならない。自分を完成された個人だと考える傲慢な我々が、時々でも謙虚さを取り戻すために、最もよくできた説明ではないかと思うのだ。

さらに子育てばかりではなく、もともと血のつながりのない男女が家族になるためには、とても都合のよいおまじないではないだろうか。家族・一族という言葉からは、血の繋がりをイメージしてしまうが、その出発点となる夫婦にはそれがないのだ。特別なつながりという考え方は、好都合ではないかと思う。

もちろんこういってみたところで、親は自分のパートナーを、必ずしもベターハーフであると信じることができないはずだ。我々が生涯に言葉を交わせる異性は、全体から見ればあまりに少なすぎる。

しかし子供にすれば、(遺伝子や、発生のメカニズムを知らなくても)自分は親の半分ずつから出来ていることを、なんとなく知っている。親が一対のものでなければ、子供は体を二分されるような、錯覚や不安を覚える(私にはそんな記憶がある)。両親がベターハーフであることを、誰よりも信じているのはきっと子供なのだ。

子供が親離れを始めるまでは、つまり個人として歩み始めるまでは、ベターハーフというおとぎ話を一緒に信じてやれないものだろうか(もちろんベターハーフとは、相互補完にほかならない)。

最後に体罰のハナシから離れてしまった。ベターハーフなど、所詮おとぎ話だ。こんなことは信じなくてもいい。議論をすり替えているという指摘も受けるだろう。

しかし体罰の是非を考えるとき、配偶者を得ているなら自分の意見を持たず、配偶者と話し合った結論を、その家庭としての意見にして欲しい。考えを一本化しなければ子供が混乱するし、こんなことさえ出来ないようでは夫婦ではない。これはなんとか認めて欲しい。

夫婦で出した結論であれば、それがどっちに転んでも、私はそれを支持しよう。

END

【長文にもかかわらず、読了くださって有難うございます。 感謝を込めて 椎葉一】

8 家庭内 教育ノススメ

ずいぶん前から気になっていることがある。親の中には、学校教育ばかりが子供の教育だと思っている人がいるのではないだろうか。

学校教育とは、極論すれば学問の教育だ。時間割に書いてあることしか教えてくれない。学問以外の日々の暮らしで必要な知識は、親以外の誰が教えてくれるのだろう。

たいていの親は、自然とこれをおこなっていると思う。しかしなにか目的意識を持つのと、偶然を頼りにしているのでは、時間とともに大きな違いがあらわれないだろうか。

「テレビ東京マガジン」という番組に、「やってTRY」という人気コーナーがある。通りすがりの女の子に、突然料理を作らせるという内容で、彼女たちの奇想天外な失敗を見て、笑いを取るという趣向だ。

しかし失敗するのは当然の事だろう。火加減ひとつでもデリケートなものだ。日常的に料理をしていなければ、うまくできないほうが自然だ。

私が気になったのは料理ができないことではなく、食材を選べない事だ。鯖の味噌煮を作ってくださいというのに、ほとんどの子が鯖を選べなかった。

鯖だけではない。日本の食卓に日常的に出てくる魚を、多くの子が選べなかった。彼女たちは魚を識別しようとしていないし、どうやらその必要性も感じていないようだ。

 ものを識別できる事は、生活者にとって必要なことだろう。特に自分がいま何を食べているのかを知ることは、重要なことだ。生きるための基本ともいえる。

 いくつもの食材を区別し、それぞれの味や調理法や、旬の季節などの知識を増やしていく。さらには栄養学的な知識なども追加していく。こんな事の蓄積が、生活を豊かにするのではなだろうか。

 それはもちろん食材ばかりにとどまらない。植物・道具・季節ごとの自然現象など、あらゆるものが生活を取り囲んでいる。身の回りの知識を深めることは、便利なばかりでなく、生活や心までを豊かにしないだろうか。

それとも親というものは、鯖の模様なんか覚えるくらいなら、算数の公式をもうひとつ覚えて欲しいと思うものなのだろうか。本気で心配になってきた。

まあ何人かは同意してくれたと思って、話を進めよう。

家庭内教育というと、ちょっと面倒な感じがするかもしれないが、まずは言葉だろう。たくさんの言葉を知り、微妙なニュアンスまで表現できてこそ、日本語の話せる日本人といえるのではないだろうか。

愛の告白も、上司への直訴も、法廷での弁論も日本語で行われる。日本語を知り、使いこなすことは、大切な事だと思う。

たぶん魚の名前を知らなかった子供たちの親は、あまりにも常識的な事だから、当然知っていると思っていたのだろう。しかし教えていない事は知らないのだ、と考えたほうがいいようだ。

これはもちろん物の名前だけではない。親子の会話の中で、あらゆる言葉と言葉使いが伝わっていく。子供が10歳くらいになったら、親は遠慮せず、大人と同じように言葉を掛けてやればいいのではないか。

多少難しい言葉使いでも、気にすることはないと思う。子供は意味を聞いてくるかもしれないが、それはとてもいいことだと思う。

いま使う必要のない言葉でも、覚えていれば必要なときに使えるようになる。子供は不思議と覚えているものだ。新しい歌謡曲やコマーシャルソングなど、信じがたい速さで正確にコピーできる。

きっと本人も知らないうちに、言葉にもこの能力を発揮しているのだと思う。
「静粛にしてください。(オー、静粛なんて今日はじめて使ったぜ)」みたいな経験を、きっと誰もが持っているはずだ。ストックがあれば、子供は必要に応じてそれを使うことができるようだ。

そしてこの会話の中には、たくさんの情報が多く含まれている。会話さえもっていれば、多くの生活知識が自然に伝わっていくはずだ。

「おせんべいが湿気るから、袋の口を輪ゴムで止めておいて」「ストーブを使うと空気が悪くなるから、時々換気をしなさいよ」こんなちょっとした「~だから」という声かけで、生活知識は伝わっていく。

いや「~だから」さえ必要がない。「これは、ほうれん草のおひたしよ」と声に出すだけで、子供はほうれん草と、おひたしという調理法を覚える。美味しかったかどうかという感想も、たぶんセットにして。

こう考えると何気ない日常会話は、考えている以上に大きな教育効果をもっているのではないだろうか。子供は大人と違い、たいていの事が初体験か、まだよく知らないことなのだ。


 子供は大人が顔をしかめるような、汚い言葉や乱れた言葉をよく使う。これは当たりまえのことらしい。自分たちだけに通じる仲間言葉を使う事は、仲間同士の結束の確認なのだそうだ。たいていの大人にも心当たりがあるはずだ。

昔の旧制高校の時代から(たぶん江戸時代であっても)、少年たちは、彼らだけに通用する仲間言葉を使っていたのだろう。重要なことは、仲間言葉を使うべきでないときに日本語が話せるかどうかだ。

仲間言葉しか使えなくて困るようになるのは、大人社会に出て行くときだ。おそらくその時点で気がついたのでは、かなりの苦労をすることになる。あまり小さな子供に強いることはないのだろうが、ある時期からは相手によって、使う言葉を区別させたほうがいいと思う。

家庭内でフォーマルな言葉使いをする必要はないが、親に対して仲間言葉を使うのは、よそごとながらあまり感心できない。大人と子供、親と子供を一緒くたにしてしまうと、子供は初めて目上というものを前にしたとき、どう振舞っていいのか解らなくなってしまう可能性があると思う。

本当に正しい日本語を覚えようと思うなら、読書や学校教育を待つ必要があるのだろう。親の日常会話は、所詮「話し言葉」でしかないのだ。

しかし親は、身の回りにある実物を、出会うたびに指差しながら言葉を教えることができる。待つ必要はない。出会った時が、教える時なのかもしれない。

また味わい深く、より情緒の伝わる方言などは、人から人にしか伝わらないのだ。たぶん会話というものは、感情や情緒を伝える役割が大きいと思う。「話し言葉」にも、それらを正しく伝える正確さや、美しさがあるのではないだろうか。

そして言葉の教育で最も大切な事は、必要なときにきちんと発言する勇気や、積極性をあわせ持つことだ。いくら正しい日本語を知っていても、自分の気持ちは声に出さないと誰にも伝わらない。無いのと同じことなのだ。

友人に、恋人に、親に、教師に、上司に、あの時こう言っておけばよかったというような、ほろ苦い後悔の記憶が誰にでもあるのではないだろうか。こんな後悔は少ないほうがいい。

この正しい自己主張の訓練が、この先訪れる反抗期を、無意味な対立に終わらせない手段にもなると思う。

 

言葉以外にも、生活に役立つ技術を教える必要もある。技術というと、これもまた大袈裟に聞こえるが、ほとんどの親が、歯磨きや洗髪の仕方を教えた経験があるはずだ。こんなことだって上手・下手のある立派な技術だ。

そう考えると、いろんな技術が生活の中に存在しているのが分かる。これらの技術を教えてやることも、親の役目ではないだろうか。

私は生活の中の技術を、家庭科の授業でいくつか習った。ご飯の炊き方、包丁の使い方、ボタンのつけ方、針と糸の使い方などだ。私の家庭科の成績はかなり悪く、これらのうち辛うじて上記のごく一部を、大人になっても覚えていた程度だ。

しかしこれらの技術を応用し、何か作品を作ったときは(焼き飯を作ったり、取れたボタンをつけたりといった程度だが)、習っていて良かったなと思った。反面、もっと覚えていたら、もっと上手に出来ただろうなとも思った。これらの技術は、一人暮らしをするようになって実に重宝した。

本来これらの事は、親が教えてやるべき事ではないのだろうか。どうせ家庭科で教わることと考えるか、自分が教えてやれることは自分で教えてやろうと考えるか、親の考え方次第だ。

また、正しく教える事も難しいことだ。前述の歯磨きだが、これは歯を磨くというより、歯と歯茎の間や、歯と歯の間を掃除することだと、ちゃんと伝わっているだろうか。洗髪だが、これは髪を洗うというより、指の腹で頭皮を奇麗にすることだと、きちんと伝わっているだろうか。

あなたの子供が大人になっても、自分の歯で物が食べられるか、若ハゲに悩まないかの分かれ目である。

技術を伝えることは、親子で会話を楽しむのにも絶好の機会だと思える。私だけでなくほとんどの子供が、家庭科で調理実習がある日は、1時間目からそわそわするほど楽しみだった。親子でパンを焼いてみるのなんて、日曜日を楽しい親子の会話で過ごす、良いリクレーションになりそうだ。

さらに技術を伝えることには、親を尊敬するチャンスがあるかもしれない。あなたは子供の頃に、親が何かをしてみせるのを見て、「スゲー」と思った事は無いだろうか。子供は親を尊敬したがっている。血が繋がっていると分かっているからか、親がカッコイイと、我が事のように誇らしい。

このとき失敗して、親のメンツがつぶれる事を恐れる必要はないと思う。失敗したら素直にそれを認めて、「ありゃ、こいつは失敗だ。よし、どこが悪かったのか調べてみようぜ」とあれこれ試し、何作目かで成功できれば、これは別のことを伝えることにならないだろうか。

私はこれら生活の技術の中で、象徴的な存在だと思うのが「はし使い」である。毎日何度も必要になる技術なのに、正しくできない人が大勢いる。多少の上手・下手は仕方のないことだろうが、びっくりするほどおかしなはし使いの人もいる。

はし使いに無頓着な人は知らないだろうが、実は気になっている人がたくさんいる。そんな人は、はし使いの下手な人を見ると不快に感じる。まず美しくない。それは見ているこちらの食事が、まずくなることがあるほどだ。

時には「親の顔が見たい」という言葉さえ浮かぶ。申し訳ないとは思うが、ほんとにそこまで感じてしまうのだ。たぶん食事という、食べ物を口に入れるという行為だから、不快感が強調されるのだろう。

はし使いを意識していない人は、これを読んで憤慨していると思う。どうやって食事をしようが、個人の勝手なのだから。

しかし世界中の多くの文化に、テーブルマナーというものが存在するのは事実だ。お互い相手を不快にする行為は避けよう、その共通認識が様式化し、一般化したものがマナーというものなのだろう。日本においてはし使いは、その最低限であるはずだ。

はし使いが生活の技術の象徴だと思うもうひとつの根拠は、体得するのが困難だからだ。幼稚園児に○を描かせてみよう。彼らであっても円のイメージはあるはずだが、たいていは上手く描けない。まだ手や指先のコントロールが上手に出来ないからだ。

はし使いを教わるのも、まだこの能力が出来上がっていない時期だ。だから教えてもなかなか上手くいかない。教える側には根気というものが必要になってくる。それも何年もだ。

人前で使う技術なのに、基本的なマナーなのに、毎日何度も使う必要があるのに、体得するのに時間がかかる。そんな技術だからこそ、親の子に対する教育の姿勢が、もっといえば関心や愛情の深さが伺われるのだ。

またマナーという問題が出てきたが、これを身につけていないと、場合によっては大損をする。何かひとつのマナー違反が、その人の教養や家庭環境さえも象徴してしまう。

大人になれば、誰もが最低限のマナーというものを要求される。誰も口には出さないが、人はあなたの子供のマナーを見て、何らかの感想を持つ。人に不快感を与えないように振舞う事も、やはり教えておくべき知識であり技術だと思う。

最低でも、家の中と外では違ったルールがあることだけは教えてやるべきだろう。親が教えてやらないことで、損をするのは子供のほうなのだ。

子供がレストランや電車の中など、公共の場ではしゃぎまわり周囲の人に迷惑を掛けている、などという指摘がずいぶん前からあった。彼らの親に言わすと、子供のやることだから仕方がないということらしい。

ではいつからマナーに従わせるのか、決めてあるのだろうか。その前日と翌日では、何が違っているのだろう。従うようになってからというのであれば、何もしていないのと同じだ。

こう考えると、子供を社会に送り出す親の役目って大変だなあと思える。しかし教えてやらないことは知らないし、身につかない。親以外に一人の子供の将来を本気で心配し、指導してあげようなんて奇特な人はいないのだ。

身近な技術の伝承で、私のささやかな経験を書いておきたい。

ちょう結びを教わったのは母親からだった。幼稚園に通っている頃だった。それまで私の知っていた結び方はゆるゆるで、結んでいるとはいえないものだった。それを二回やると今度は硬結びになり、二度と解けなくなってしまっていた。

ところが教わった結び方だときちっと結べ、驚くべき事にワンタッチで解く事ができるのだ。目を見張る便利さであった。

「ほらチョウチョの形をしているでしょう」母親はそう言い、指でその形をなぞった。便利なうえに可愛い形に私は嬉しくなって、何度もチョウチョを結んでは解いた。

その後4年生くらいのとき、初めてひも靴を買ってもらい、そのひも結ぶときにこの日の事を思い出した。それ以来ちょう結びを結ぶとき、これは母から教わったんだったなと、ふと思い出す事がある。日頃思い出すこともない母親の顔が、ひょいと心に浮かぶ。

さて親が子供に教えてやる事は、言葉や技術ばかりではない。優しさやいたわり、正義や勇気といったものを、多くの親が、子供に知って欲しいと願っているはずだ。また宗教のところで書いたように、最も大切にしなければいけないものは何かといった、究極の価値観のようなものも教える必要がある。

これらのことを口で言うのは容易なことだ。しかし簡単に身につくものではない。おそらく親が実践してみせることが、一番の方法だろう。いくら口で言ってみたところで、親がそれを実践していなければ、子供は馬鹿らしくなってしまう。

あぁ、なんということだろう! 家庭教育を行うということは、もう一度自分の身を改めなければならないのだ。子育てを終わった世代の人が「親が子を育てるのではなく、子が親を育てるのだ」と話しているのを何度か聞いたことがある。おそらくこの事も含んでいるのだろう。

親は子供にひとつ徳を望むたびに、自分もその徳を実践する必要があるのだ。両手を上げて降参するか、子供と一緒に自分も育っていこうと考えるか。どちらを選択するかは、親しだいである。

追記…

日本と西洋の、家庭教育の考え方の違いを、分かりやすく示す話を聞いたことがある。なんだか作り話のように良くできているが、実話だったとそのときは聞いた。ずいぶん前に聞いたことなので、細かいところの記憶違いはご容赦ください。

一人の西洋人(イギリス人?)が、仕事の関係で日本に派遣されてきた。彼は頭が良く、ごく短い期間で日本語の日常会話ができるようになり、そのうち日本の「ことわざ」などにも興味を持ち、勉強し始めた。

その彼が同僚の日本人に、こんな質問をした。「かわいい子には旅をさせろ、とはどういう意味だい?」

日本人は自分の知識に従い、こう返事をした。「子供がかわいかったら社会に出して、よその人に鍛えてもらうといい。親は甘やかしてしまうものだ」

それを聞いた西洋人は、猛烈に抗議した。「それは間違っている。よその人に任せたら甘やかされてしまう。子供は家庭で厳しくしつけるものだ」

どちらの考え方が正しいのだろう。日本と西洋は、違う文化を持っている。どちらが正しいと考えること自体、間違いなのかもしれない。

しかし日本のライフスタイルは欧米化が進み、個人主義というものを重要視するようになった。このような時代においては、欧米人の考え方を支持するほうが、蓋然性があるのだろう。

この話は、個人主義という思想をよく現していると思う。自由である代わりに、あらゆる責任が個人に帰結するのだ。個人主義を支持するなら、よその人に何かを期待することは、もはや間違いなのだろう。

学問のことであれば、学校に任すことができる。しかし人間の営みは、時間割に書いてあることばかりではない。むしろそれ以外に、大変重要なものもたくさん含まれているはずだ。

いつかできる、そのうち分かる、と考えるのではなく、自分以外に教えてやる人間などいない、と考える必要があるのではないだろうか。

「親の顔が見たい」とか「お里が知れる」というのは、なんだか嫌な言葉だが、個人主義を支持するなら、今後リバイバルしてくる可能性がある。

End

9 家庭内 学問ノススメ

 前段では、学問ばかりが教育でないことを書いた。ここでは学問のほうの教育について考えてみたい。といっても、せいぜい低学年のうちの話だ。これらは学問というより、学問に向かうための「いろは」であり、場合によっては社会常識の話でもある。

 学年が進むにつれ、学問はとても親の手には負えなくなる。しかし低学年のうちくらいは、時々見てやることも必要ではないだろうか。学校任せにしてしまうことで、失っているものが有るように思う。

注:最近はリビング学習というものが一般化し、この文章を読んで、「今頃なにを言っているのだ」と思う人も多いだろう。私が子供の頃は、勉強は一人でやるものと考えられていた。そして勉強中の子供に声をかけることは、悪いことだとも考えられていた。今でもこのスタイルを続けている家庭に、多少でも視点を変えるきっかけになれば、と思って載せることにした。

私には、家庭内学問の象徴といえるような思い出がある。

九九の二の段を勉強しているときに、引越しをする事になった。ところが新しく通うようになった学校では、既に八の段に進んでいたのだ。クラスメイトが各段の修了を示す花のマークを、壁に貼った表につけてもらっていたのに、私にはほとんどついていなかった。

これは小学校に入って、初めて経験するピンチだった。私の性格だろうか、子供というのはそういうものなのか、九九が出来ない事は「悪いこと」だと思い、しばらく誰にも相談できなかった。

しかし間もなく九九の勉強を終える頃、思い切って母に相談してみた。そのとき怒られるかもしれないと、ビクビクしていたように思う。

母はしかる事もなく、九九の特訓を私に施した。45日だったと思うが、一緒になって九九を暗唱してくれた。おかげでなんとかクラスメイトと同じに、九九を体得する事が出来た。

このことを大人になってふと思い出し、ぞっとした。ひょっとしたら私は、九九の暗誦ができない大人になっていたかもしれないのだ。それは後の私の算数人生を、大きく違ったものにしていたに違いない。

子供がテストで悪い成績をとったとき、その理由を確認している親はどのくらいいるのだろう。できなかった事には理由があるはずだ。

たとえば面積を求める計算にしても、図形の認識ができていない、公式を覚えていない、筆算ができない、まだ九九が完璧でないなど、いくつもの理由が考えられる。しかしたくさんの親がその確認をせず、点数という結果ばかりに目をやっていないだろうか。

小学校のうちは、せめて低学年のうちくらいまでは、親がそのへんをフォローしてやれないものか。塾にやるのもひとつの方法だろうが、皆が見ている前で手を挙げて質問できる子供はどのくらいいるのだろう。

手を挙げて質問するということは、子供にとっては「私はみんなより愚かです」と、満座の前で告白することに他ならない。子供は(大人も?)出来ないことを隠そうとする。できない子に合わせてくれるような塾でないと、学校と同じ結果になるのではないか。

乱暴な言い方かもしれないが、小学校の低学年で習う内容ぐらいは、どの子も習得できるのではないだろうか。全員が満点を取れるほどの内容だと思う。しかし差がついてしまう。

これは習得するのにかかる時間が、みんな違うからだと思う。出来るようになる前に次に進んでしまい、出来ないのだと思い込んでいる親子が、きっといると思う。このことで教師や学校を責めることは出来ない。カリキュラムというものには、制限時間があるのだ。

現代の日本人は、日本史上最も高等教育を受けている集団だ。この学問は自分の高学歴を手に入れるためや、赤点を取って恥をかかないためだけに必要だったのだろうか。

学生時分はそうだっただろう。しかし親となったいま、せっかく手に入れた自分の知識を、自ら我が子に引き継ごうという考えが、なぜ起こらないのだろうか。ちょっと考えたら、この方が不思議な事だ。

今はまず義務教育ありきで、エスカレーターに載せるように、自然に学校に通わせている。このシステムを悪くいうつもりはないが、親の責任はどこに行ったのだろう。

カリキュラムに沿った流れは学校に任せるにしても、個別のケアくらいは受け持つことができるはずだ。そうすれば担任の教師でさえ気がつかない、最初の小さなつまずきや悩みを、親自身が取り除いてやれる。

小学校の12年生など、自宅学習のやり方さえ知らないはずだ。学問の「事始め」の時期に、親が良い流れを作ってやってはどうだろう。

誤解しないで欲しいのだが、なにも私は成績のよい子に育て、高学歴を手に入れさせようなどといっているわけではない。また子供の能力が、みんな同じだといっているのでもない。

ただ九九だとか、筆算のやりかただとか、ちょっと手を貸してやればできるようになることを親が見過ごし、自分は勉強ができないと思い込んでしまう子がいたとしたら、あまりに惜しいことのように思えるのだ。こんなことにコンプレックスを持ち続け、大人になってからも苦しむ人がいるとしたら、あまりに悲しいことだと思うのだ。

彼らを救済してやれるのは、親以外に誰がいるだろう。

親が子供の勉強時間に立ち入ることは、子供の邪魔になるように思えない。対話形式で勉強を進めているうちに、むしろはかどって行くのではないだろうか。

私の記憶でいえば、低学年のころの勉強時間というものは、退屈で窮屈な、何をやったらいいのかよく分からない時間だった。いま勉強がノッているから話かけないで、という子供でなければ、親子学習は楽しい時間になるように思う。

もちろんこのとき、できないことを叱ってはいけない。できないから、「これからできるようになろうね」というスタンスが必要なはずだ。

これは口で言うほど簡単なことではないと思う。これができない人は、親子関係が悪くなる危険性があるので、親子学習はやめておいたほうがいいだろう。教えるという素養のない人だ。もちろん悪いことではない。人には得手・不得手があるものだ。

また、忙しくて子供と過ごす時間がない父親は、むしろこの時間を利用してはどうだろうか。子供の勉強の邪魔になると考えずに、これを親子が接する時間にしてしまうのだ。

何分くらいが妥当なのかは分からないが、たとえば15分一緒にドリルに取り組んだら、10分無駄話をする。これを何セットかするほうが、遊びたい盛りの子供の自主性とやらに任せて、だらだら長い時間勉強部屋に押し込むより、能率があがるように思う。

教科書を手に取り、じっくり読んでみると、親は自分がこれを教わったときをリアルに思い出すのではないだろうか。人によっては、できない子供の気持ちや、つまずきやすい箇所などまで思い出せるかもしれない。

さらに友達や、先生や、当時の自分の考えていたことが、にわかに戻ってくる。教室のざわめきさえ蘇ってくる。その小さなタイムトリップを経験するだけでも、いま目の前にいる自分の子供の心に近づけると思う。

懐かしい記憶を思い出した親は、しぜんに自分の少年時代の話を始めるだろう。その昔語りは子供にとっても興味深く、親を身近に感じるようになるかもしれない。子供にとって親が子供の頃の話は、なんだか不思議な世界の話だ。

親の話がきっかけとなり、子供は自分の体験を語ったり、近況を話したりするかもしれない。少なくともテレビのない環境で、親子の会話を持つことができる。なにも親子の時間は、遊びや、スポーツや、アウトドアに、限定する必要はないはずだ。

ひと月に何回かこんな日があることで、勉強が遅れるとは思えないし、忙しさゆえに親子の時間がもてないほうが、よほど取り返しのつかない問題を残すように思う。

この時間が当たり前になれば、子供は積極的に自分の学習の問題点や、勉強以外の悩みさえも、親に相談できるのではないだろうか。


 子育てという作業には、かなりの部分「教える」という作業が含まれる。親はいろいろな事を、子供に教えなければならない。しかし学問だけは、大部分を外部に委託している。

もし何かを教わったという子供の意識が、教えてくれた人への感謝や信頼につながると仮定したら、親はせっかくのチャンスを放棄している事になる。この推理が事実であったなら、我々は物凄くもったいない事をしているといえるだろう。

 たいていの親は、子供の学力は高くあってほしいと望んでいる。少なくとも、落ちこぼれという状態は避けたいはずだ。しかし何人かの親は、その結果にしか興味がない。テストや通知表に一喜一憂している。成績が悪ければ諦めるか、別の教師に丸投げにしてしまう。

 親が子供の勉強をみてやらないのは、多分忙しいからだろう。それは多くの場合、テレビや雑誌の視聴、趣味や知人との付き合いであったりする。

しかし子供が低学年のうちから勉強につまずいてしまうということは、その家庭で最も憂慮すべき問題ではないだろうか。出来ないという思い込みや、早すぎる挫折感は、間違いなく子供にいい影響を与えない。
 
10歳にならないうちから、学校が苦痛の場所になってしまっては、よい人間関係さえ作れなくなる可能性もある。

 親のちょっとした気配りが、出来ないと思い込んでいる子供を救ってやれるのだ。つまらないコンプレックスから開放してやれるのだ。

そう考えると低学年の子供の通知表というのは、子供の学問の成績ではなく、親の配慮の成績が記されているのかもしれない。

余談1…

本文で、親が確認してやれる事柄に、「九九」と「筆算」を例として書いた。これにぜひ追加したいと思うのが「筆順」である。

正しい筆順で書くことは、美しい字を書くためには欠かせないことなのだそうだ。筆順など無関係のような崩した草書体も、実はそのほとんどが正しい筆順にのっとって書かれている。デフォルメが上手な画家は、実はデッサン力が優れていることと似ている。

字の上手・下手は、学生のうちは採点の対象にならない。しかし大人になると、採点はされないが、評価を受ける。字が上手だと、無関係だと分かっていても聡明な印象を受ける。私の見聞をいえば、上司からも、異性からもウケがいい。

中高生くらいなら(特に女の子は)、美しい文字よりも、かわいい文字を書きたいと思うだろう。私の時代もそうだった。いわゆる「マンガ字」に人気があった。

どんな字体を選ぶかは、子供の自由だと思う。しかし社会に出てマンガ字から卒業しようと思ったとき、美しい字を書けるかどうかは、正しい筆順を知っているかに大きく左右される。

いちど身についた筆順を、大人になってから矯正することは難しい。これからたくさんの漢字を学んでいくころに、ずっと未来の子供に配慮して、筆順の重要性も教えてあげるのはどうだろうか。


 ここまでの知識を教えることは、前段の「家庭内教育」だ。それを実施しているかを時々チェックして、時には一緒に苦労してやるのが「家庭内学問」だと思う。

余談2…

 この文章を書く少し前、リビング学習を実施している家庭が、一般化しつつあるというテレビニュースを見た。たしか既に半数を超えているということだった。これは画期的なことだと思い、感心した。

 本文の中で、いっそのこと子供の勉強時間を、親子のふれあいの時間にしてみてはどうかと提案した。子供部屋に押しかけてしまえ、という発想だ。リビング学習というのは、この考えを大きく飛び越えた、コロンブスの卵のような発想だ。

リビング学習についてはじめて知ったのは、もう10年位前になる。最近の東大生の何割かは、受験勉強を居間でやっていた、というテレビニュースだった。

多くの人が、にわかに信じられなかったのではないだろうか。高学歴君というものは勉強部屋で、寸暇を惜しむように机に向かっているものだと思われていたからだ。

ニュースの論調はこの学習法に好意的で、新しく効果的なものとして紹介されていた。インタビューを受けた東大生も、自分には効率的だったと話していた。

しかし何人かの教育ママは飛びつくだろうが、一般化はしないだろうなと思った。母親がプライムタイムに、テレビと決別することは出来ないだろうと思ったのだ。

 しかし私の見通しは、外れていたようだ。母親が子供を想う力は、テレビの魅力を跳ね返したのだ。うれしい誤算である。

 ところで、私がイメージするリビング学習と、母親たちが考えているリビング学習とは、少しニュアンスが違うかもしれない。母親にとってリビング学習は、勉強の効率を上げるためのものだが、私のは親子の時間を確保するためのものだ。

 これはかなりおせっかいな提案なのだが、リビング学習中の子供がペンを置いて「ねぇ、お母さん」と声をかけてきたとき、「勉強に集中しなさい」というようなことは、極力言わないであげて欲しい。

たぶん子供のこのせりふの後に、たくさんの彼の本音や、成長や、親から見えない日常が続いている。トラブルや悩み事の、ごく初期段階が秘められている。たぶんトラブルや悩み事は、長期化し深刻なものになるほど、親には相談できなくなり、むしろ秘密になっていく。

子供は漫画や、テレビや、ゲームをしているときに相談などしない。夢中になっているからだ。親には残念なことだが、勉強のように面白くなく、退屈なことをしているときに集中が途切れ、ポロリと何のたくらみもない本音が口に出るのだと思う。

End

10 思春期症候群

思春期というのは後になってみると、しみじみと懐かしい季節である。子供から大人への生まれ変わりの時期だから、新しい戸惑いを覚える。時には厄介だったり、滑稽だったりといった経験もする。

その体験は人によって様々だろうが、代表的なものは自分に対する関心と、異性や性への関心がモーレツに強まる事だ。

親にとって子供の性について考えることは、ひどく憂鬱なことだと思う。心配しながらも、子供を前にすると、何をどう話していいやら途方に暮れるのではないだろうか。たぶん日本には性について、子供に語る文化がなかったのだろう。不思議な気もするが、たぶん理由があったのだ。

もし子供が性と、真摯な態度で向き合って欲しいと考えるなら、一度は目を逸らさずに、真剣に考えてみる必要がある。いったい親は、彼らに何をしてやれるのだろうか。

お年頃になると自分に対する関心は、持ち物ひとつにも偏執的なこだわりを抱く。今では無印良品的なものを愛している私だが、あの頃はメーカー品でないと満足できなかった。スポーツウエアやシューズなど、人気のあったブランドのロゴが入っているものが無性に欲しかった。

それをコピーしたインチキ商品が出回っていて、母親はしばしばそんな品を買ってきた。そんな時私は「これを身につけて学校に行くぐらいなら、死んだほうがましだ」と思うほどだった。そのことで母親とよく言い争いをしたものだ。

どうしてあんなにメーカー品に憧れたのだろうか。今考えると、たぶん人目が気になったのだろう。品質の良し悪しなどは、比べたこともなかったのだ。つまり自意識過剰な状態だったのだろう。

この自意識過剰の鋭い視線は、もちろん自分の体にも向けられた。髪の寝癖なども非常に気になり、ひどく跳ね上がっているときは、今日は学校を休んでしまおうかと思ったほどだ。しかし寝癖などは翌日には直っている。

問題は容姿にあった。この鼻がもう少し高ければとか、身長がもっと伸びないものかとずいぶん思い悩んだ。そしてこれらのことは、コンプレックスになった。当時ほどひどく感じなくなったが、これらは今でもコンプレックスでありつづけている。

コンプレックスといえば、以前それを題材にした短歌を見た事がある。雑誌に掲載されていた、一般の女性からの投稿作品だった。残念ながら正確に記憶していないが、こんな内容だった。

どうして私はこんなにブスなのと、娘が笑いながらいった

私はそれを、泣きながら母に訴えたのに…

なんだかしみじみと、感じるものがありませんか。

あぁコンプレックス… 屈託なく笑っているあなたの子供も、今にこいつにさいなまれ、悲嘆にくれる日々がやってくるのだ。

どんなに恵まれた美男・美女であっても、たいていの人は自分のどこかに欠点を見つけて、コンプレックスを感じるものらしい。コンプレックスは自分で乗り越える以外ないのだが、何とか軽くしてやる言葉はないのだろうか。

小さい子供がいる親は、このことを今から考えておいたほうがいいかもしれない。おそらく子供は身長だとか、目の形だとか、鼻の高さだとか、あなたがかつて引け目に思った部分を攻撃してくるに違いない。

なぜならコンプレックスは前述の短歌のように、時間を超えて突きつけられる可能性が高いからだ。親子なればのことだろう。

異性に対する関心も、尋常なものではなかった。見たくて、触りたくて、知りたくてどうしようもなかった。これは完璧なスケベ心で、愛とか精神的なものは一切なかった。逆に好きな女の子の体は、想像するだけでも相手に悪いような気がしたものだ。

このスケベ心は大人になっても健在だったが、異性を知ってからは少し質が変わったようだ。思春期の性は、早く確認したいという好奇心が加味されて、自分でも手に負えないものになっていたのだろう。

ここで思いきって、性教育について考えてみたい。たぶん上手くいかないと思うが、親御さんにはぜひ一度考えてみて欲しいので、失敗を承知で挑戦しようと思う。

親は性教育に関して何か考えがあっても、自分の子供に照らし合わせてみる事は困難な事に違いない。もちろんたいていの子供も、家庭内での性教育など望んでいないだろう。
 親子で性のことを考えるのは、日本では考えられない事だ。社会が性に対して抑圧的であるということだろう。

若い頃はそれでいいと思っていたが、ある頃から考えが変わってきた。そのきっかけになったのが、カールセーガンの著書「COSMOS」にあった記述だ。彼は精神心理学者のプレスコットの研究を引用し、以下の記述をしている。

「子供たちに肉体的な愛情を惜しみなく与えるような社会は、暴力行為を嫌う傾向がある」「子供をそれほどかわいがらない社会でも、思春期に性行動が抑圧されていなければ、子供たちは、暴力的でない大人に育つ」「子供たちを肉体的にかわいがり、結婚前の性交渉に寛大な社会が暴力的になる確率は2パーセントである…(中略)…成長に関する要因のなかで、これほど高い確率で予言できるものを、私はほかに知らない」

つまり誕生から思春期まで、異性も含めたスキンシップを豊富に持つ社会は、ほぼ間違いなく暴力を否定するようになるということだろう。

さらにセーガン博士はこうも記述している。

(プレスコットが正しければ)この核兵器の時代、有効な避妊法のある時代では、子供の虐待と、きびしい性の抑圧とは、人類に対する罪である」

どうやら人間とは、幼いうちは親の肌に安心し、成長すると友人らとのスキンシップに励まされ、思春期を過ぎれば異性の肌に癒されるもののようだ。おそらく老いた後であっても、人は愛する人との肌のふれあいにより、心の安定を得るのだろう。

そういえば童謡の「赤とんぼ」では、「十五で姉ぇやは嫁に行き」と歌われていた。古い時代であれば(わずか3~4世代前だが)、思春期は結婚年齢の入り口だったのだ。肉体的に子供を作れる年齢に達しているものが、性に対して無関心でいられるわけが無い。

そう考えれば我々は、思春期の性に対して抑圧的過ぎるのかもしれない。もはや子供を作る能力のある者に、いつまでも、何も知らない子供であり続けることを望んでいる。

思春期とは、自意識から来るコンプレックスにさいなまれ、受験や成績や将来の進路などに悩み、その心はまだ完成しきっておらず、もろい。こんな不安定な時期に、安らぎが必要なのはうなずけるような気がする。異性の肌に触れる事は、安心感や安らぎを与えてくれる。

しかし自分の子供だと、そう考える事は苦痛に違いない。恋人ができると、よその子に盗られてしまったような喪失感があると思う。さらに妊娠などということになったら一大事だ。本音を言えば、学問だけに集中して欲しい。

プレスコットの研究も、工業化される前の社会のみを対象にしていた。近代化された社会ではほとんどの場合、思春期の性に対しては抑圧的だということだろう。

これは就学年齢や就職年齢が、高くなっていることが最大の原因だと思う。安定的な収入が期待できなければ、家庭を持つことは難しい。体が大人になっても、社会システムの中では大人になっていないのだ。

プレスコットの研究がどうあれ、社会が子供の性の解禁日を指定している。

 しかしそれが思春期の性に対して、抑圧的過ぎる事の言い訳になるのだろうか。親や社会がどう変わろうが、思春期を迎えた者の心と体は、昔と変わらないのだ。

とりあえずは性の知識というものを、悪い事のようにフタをしてしまうことは、改善すべきだと思う。法律的に、社会通念的に未成年であっても、生物としてはもう大人なのだ。無知であるほうが不自然だし、危険である。

たいていの親は、子供が高校を卒業するくらいまでは、子供の性交渉に寛大ではいられない。それは正しかろうが、間違っていようが、今しばらくは変えることはできないだろう。

しかし大人ならば知っている事だが、男女の中はひょんな事から、ひょんな事になってしまうものなのだ。そんな時正しい知識があれば、心や体に傷を残すような事態を回避する事が出来る。やはり妊娠と避妊の知識は必要な事だろう。体はすでに「可能性」を持っているのだから。

これは親が授ける事は出来ない。なぜなら親は、子供の性交渉を認めていないからだ。性交渉を認めずに、性や避妊の知識を教える事は矛盾している。

そして実際問題として今の日本では、家庭内で性教育を行う事は非常に勇気のいることだ。教育の必要性を認めることができても、まずは実施されないだろう。
 家庭教育では、性に対しておおらかにはなりきれないのだ。ここは学校教育に頼るしかあるまい。

私が中学生だった頃、修学旅行の前に女子だけが体育館に集められて、何かを教えられていた。男子たちはおそらく性教育に違いないと考えたが、あれは一体何だったのだろうか。避妊の必要性とその手段は、少なくとも社会常識として、男子にも女子にもしっかり伝える必要があると思う。

しかし理屈や知識は学校に任せるにしても、異性と付き合うときの心構えのようなものは、親が諭してやれないものか。それさえも他人任せにするのなら、日本の親は、子供の性に対して無責任すぎると思う。

何人かの親は「子供に避妊など教えるから、子供が性の抜け道をおぼえ、積極的になるのだ」と考え、これらの教育を否定しているようだ。彼らはこの大切な知識を、責任をもって自分で伝える勇気があるのだろうか。もしそうでないなら、一体誰をアテにしているのだろう。

昔はたぶん、いつの間にか覚えるものだと考えていたのだろう。この態度がいいのかどうかは分からないが、江戸時代(近代化前)なら、これで上手くいっていたのかもしれない。昔は性に対して、ずいぶんおおらかだったようなのだ。

ウソ!と思う人がいるかもしれない。しかし若い人の性に対して、厳しい不文律が一般化したのは、明治期以来のことだと聞いている。江戸まで時代を遡れば、一部の階級や家柄の人以外は、性にはずっとおおらかだったようなのだ。

ただ、当時と現代では思想的な背景というか、平たくいえば常識が違いすぎるようなので、性に対するおおらかさなど、上手く比べることができない。しかしこんな風に考えることはできないだろうか。

当時は兄弟が多かったし、ご近所さんとも、プライバシーのような垣根はずっと低かった。人は子供の頃から、風呂や行水のときなどに、異性の体を目にする機会が多かったのではないだろうか。おしめを取り替えてやるだけで、赤ん坊のものとはいえ、異性の体をなんとなく知ることができる。

そして家庭内に同世代の異性がいるということで、話したり遊んだりという、接触の機会も多かったはずだ。また喧嘩をしたりといった悲しいときに、異性の兄弟が抱きしめて、慰めてくれたりもしたのではないだろうか。
 兄弟を、ここで論じている異性と考えるのは、少し異論があるかもしれないが、親と違い、その擬似的な役割はあったと思う。異性との垣根は、今よりずっと低かったのではないだろうか。

そして性に興味を持ち始め、憧れの期間から、いよいよ本格的に交際を始めたいと思う頃には、社会的に大人と認知されるのだ。その当時は15歳から、つまり思春期の幕開けくらいから、成人と認められていた。性の開花は不要なものではなく、むしろ望ましいことだったとさえ思える。

だから現代に、古典的な性教育が存在しないのではないだろうか。キャベツから産まれるだとか、コウノトリが運んでくるのだとかいう西洋式の性教育も、幼児を対象にしたものだ。思春期の子供を対象にした性教育は、その国の文化を形成した近代化前の社会には、あまり必要のないものだったのかもしれない。

しかし時代はさま変わりした。

15歳を過ぎても大人と認められず、社会的に認められるまで、若い人の性は厳しい不文律に縛られている。さらにかつては無かった、あまりにも扇情を掻き立てるばかりの情報があふれている。

これを絵空事や、ごく一部の人のことだと思える大人であれば、さして問題はないだろう。しかし子供たちには、よくない結果を残しかねない。

考えてみれば現代は、子供にとって残酷な時代ではないだろうか。興味津々の性の知識は封じられるばかりで、正しい性の知識を積極的に子供に伝えようという、勇気のある人は非常に少ない。そのくせ商業主義の、煽り立てるような情報はあふれるほどだ。これでは、間違えろといっているようなものだ。

小さな子供でも気軽に立入るコンビニの雑誌コーナーには、いわゆるエッチ本が、誰の目にでも入るように並んでいる。私はこれらを必ずしも悪いものだとは思っていないし、必要だとさえ思っている。

しかし若い女性が、裸で屈辱的なポーズをとらされている本の前を、小さな女の子はどんな思いで通り過ぎているのだろう。冷やりとしたものを感じてしまう。

小さな子供は無関心だったとしても、小学校の高学年くらいから、これがどのようなものかを察しているはずだ。少女たちはこれから何を感じ、大人の男たちをどのような目で見ているのだろうか。こう考えると、寒々とした気持ちにさいなまれる。

我々の商業主義は、気がつかないところで、子供をほとんど虐待さえしているのではないだろうか。こんな時代だからこそ、せめて我が子にだけはつまらない、間違ったことを、本当のことだと覚えて欲しくないのだ。

現代では、親や社会が思春期の性に抑圧的でありすぎ、それがかえって、子供たちをミスリードすることになりかねない。親は子供の性の問題に直面する前に、親の都合で考えずに、思春期の望ましい性とのスタンスを考えておくべきだと思う。

このとき最も重要なのは、性交渉には相手がいるということだと思う。多くの親は性交渉のことを考えるときでさえ、自分の子供のことしか考えていない。自分の子供が傷つかないかと、そればかりを心配している。

我が子が性交渉を持つということは、多くの親にとってショッキングなことだろう。しかし子供は、親にことわってから性交渉を持たない。親はある日突然、子供がもう性体験をしていたことに気がつくことになる。

その日までに親は、子供に伝えておくべきことがあると思う。直接的な性の知識とは違う、なにか大切なことがあるように思う。

それが、子供が異性と深く関わるようになってからの、つまりこれからのすべての人生を、悔いなく充実したものにする鍵になっていると思う。たぶん初体験の年齢より、こちらのほうが重要な事だ。

畑正憲(ムツゴロウ)さんは、「性教育は、人間教育だ」と記していた。ある女性作家は、「セックスは、最も人間性を問われる行為だ」と発言していた。どちらもこの大切な何かを含んでいるように思う。

近代化前の社会には、思春期に向けた性教育があまり見られないようだと書いた。しかしこの時代はどこの国でも、思想や宗教が生活の中に溶け込んでいた。多分これらの中に性への、あるいは異性への、さらに人間への、向きあい方が記されていたのではないだろうか。

高校生くらいの人たちの性交渉に、我々は眉をしかめる。非行の一種だととらえている人もいる。私もなんだか不愉快な思いで、これを見ているひとりだ。

しかし15歳から成人であると考えれば、見方は一気に変わる。不純異性交遊に見えた人たちが、ありふれた、むしろ微笑ましい恋人同士に見える。

大人同士だと考えれば、性に関する話も気軽にできる。15歳をどう捉えるか次第で、厄介な問題もありふれた出来事に変わってしまうのだ。

子供は一体いつまで子供なのだろうか。たぶん15歳を子供だと考えていては、一歩も前に進めない。親は子供に語りかけるのではなく、かわいい後輩に、人生の先輩として語りかけてはどうだろう。あなたはそのとき、どんな言葉を選ぶのだろうか。

追記…

やはり、あまり上手くいかなかったようですね。読んだ人は「なんの参考にもならない」とお怒りでしょう。申し訳ありません。

私としては「目をそらさないで」という気持ちさえ伝われば、まあ良しとしようと思います。目をそらしさえしなければ、あなたは自分で考え、なにか行動を起こすでしょう。それは、現実に子供を持っていない私の屁理屈より、よほど親身で心のこもったものだと思います。

この問題を直視しようとする人は、まもなく子育てを終える人たちだと思います。

性の開花とは、子供が子供でなくなることの証だからです。これはおそらく最後の家庭教育となるのでしょう。大人になる子供への餞として、悔いの残らない「仕事」となるよう、お祈りいたします。

End

«11 わすれもの